今日にキスとさよならを、そして明日に向かうのよ〜氷室冴子という人のこと〜

先日触れた氷室冴子「シンデレラ迷宮」に実は続編があるらしい!と聞いて、さっそく図書館で借りてきてみました。いやはやネット社会とは素晴らしい。
でもって泣いた。ほろほろ泣いた。25にもなってコバルト文庫で泣く女だと笑えばいいさ。本当に感動したんだから。
この「シンデレラ迷宮」→「シンデレラ・ミステリー」は、いわゆる異世界トリップもの。ただ、この「異世界」は既にヒロイン・利根の深層心理であり心象風景だということが「〜迷宮」で明らかになっているので、「〜ミステリー」は「失踪したジェインの抱えている問題は何か」と同時に「あたし(=ヒロイン自身)の抱えている問題は何か」が相当自覚的に謎解きの核になっている。

ほぼ引きこもりで友達もできなかった「〜迷宮」時点での利根は、空想の友達を作り出していた。だからそこから抜け出して現実で友達を作った。でも大人になることは、親友や好きな人を持つことだけじゃない。
前へ進むこと、自分と向き合うこと、板ばさみに悩んだとしても、結論を自分の力で出すこと。好きな人に対して誠実であること。万が一その人と争うことがあっても絶対に手加減せず、でも争いのあとには絶対根に持たないこと。それが大人になるということなら、成長とはどこまでも「孤独」になることじゃないか。

ひとりで堂々と胸を張って勇ましく歩いていく。その未来はまぶしくて少し切ない。ラスト、利根に捧げられるオディールの言葉が、それを象徴している。

「じゃあ、そのクッキーを食べる瞬間にね、ほんの少しだけ、あたい達を思い出して。あんたの未来が幸福に輝くよう、祈りながら消えていった旧い友達のことを、その時だけ、思い出して。そしたら、その後は忘れてしまっていいから。」
「忘れないわよ、絶対に忘れないわよ、あたし、記憶力はいいんだから!」
「それでもね、リネ、あんたは忘れるわ。それで、いいのよ。」
オディールは突然、馬に鞭を当てた。馬車は動き出してしまって、あたしはあわてて扉をぶち開け、身を乗り出した。
「オディール、オディール!嫌いになったんじゃないのよ。あんた達を嫌いになったんじゃないのよ!ずっと好きよ!ずっと!」

このやりとりに涙が止まらなかった。

もちろん話自体もなかなか凝っている。消えたジェイン探しが中心の話なので「ジェイン・エア」のパロディシーンが多め。この世界のジェインは夫・ロチェスター卿を失って独身という設定なのだけれど、彼女の友人リチャード卿と利根の邂逅はロチェスター卿とジェインの最初の出会いを踏襲しているし、その義妹ヘレンは設定こそ違えどヘレン・バーンズを象徴している。
ちなみに原典のヘレン・バーンズが「孤独な少女ジェインを救ってくれた年上の少女」なのに対して、こちらではジェインが孤独な少女ヘレンを救っているという、見事な逆転。氷室さんて本当に本歌取りがうまいなあ。なんせ「ざ・ちぇんじ」の作者だもんなあ。

でもって話もさることながら、あとがきが素晴らしかった。人は心に王国を持っていて、そこは自分の思うがままになる世界だけど…という話。以下引用。

そうやって人を愛した時に初めて、人は自分の王国の法律が通用しない世界があることを知り、成長していくと思うのです。(中略)それはとても大切なことで、大人になるってのはそういうことだから、私は純真(傍点つき)なお子様が「大人は汚い!大人になりたくない!」というのは、いつまでも自分の王国でお山の大将でいたいという願望の裏返しであって、少しも純真じゃないと思っています。私達はやっぱり、健全な大人になった方がいいんです。何が健全かは、もう少し考えさせてもらうけど。

少女小説家というジャンルを確立した人がこういう信念を持っていたんだなあという、そのこと自体に感動し、女の子に対する限りない愛を感じた。だって「大人になっていくこと」は多くの場合、少女小説からも卒業するということだから。彼女たちがコバルト文庫の世界を捨てて、現実と格闘していくことを応援する少女小説家・氷室冴子、その愛。

このシリーズ、実はもう1本オディール中心で書く予定があったらしくて、それを二度と読めないのは残念ですが、それはまた私があちらに旅立ったときの楽しみにでもしておきます。

氷室さんの全盛期=コバルト文庫の全盛期で、コバルト衰退とともに氷室さん自身が身体を悪くして寡作になってしまったんだけど、もし彼女が身体を悪くせず、大衆小説に本格的に進出していたら…と、児童文学出身の森絵都ラノベ出身の桜庭一樹直木賞受賞を見るにつけ思う。
私が小学生の頃も「いもうと物語」なんかは凄い勢いで読解のテキストや練習問題に使われていたし、直木賞作家になってたんじゃないか。彼女が少女小説の可能性に賭けた人だったのはわかってる。わかってるけど、やっぱりだんだん絶版が増えて読まれなくなっていくのは寂しい。

「シンデレラ・ミステリー」と一緒に初期短編集である「さようならアルルカン」も借りたのですが、これもうまいなあ…と。「妹」の結末はちょっとやりすぎだろうと思ったけど。
個人的には最後の「誘惑は赤いバラ」が好き。男の子のどうしようもなさが!こう「男には男同士の話が〜」とか言っておいて「女の子にも女の子同士の話が〜」と言われると途端に焦る感じが!あるある!
ヒロインの名前がぎりぎり痛くない感じで可愛いのもいいよね。こゆみとか蒼子とか鹿子とか。

表題作の「さようならアルルカン」も良かったです。自分の信念を通す生きづらさと、凛々しく生きていきたいと願うことの強さが共存していて。大人になれば、信念を適度に順応させながら一番大事な面は譲らないというやり方がわかるんだけどね。でも、子どものうちは二者択一だと思ってしまうよね。少女のまなざしを通して、でも答えを出してはしまわずに「自分らしく生きること」の意味を丁寧に投げかける手法はさすがだ。

常々言ってる気がするんですけど、私、思春期以上の女の子に対する「天使」とか「純真無垢」ってまったく褒め言葉だと思ってなくて。
肥大する自意識とか変化する肉体とか、トイレに一緒に行くとか行かないとか、周りの大人や規則との折り合いや「大人はわかってくれない!」と叫びながらどこかで自分だって大人のことを少しもわかろうとしないことに気付いて嫌になったり、そういうもの(80%以上は自意識)と戦いながら「わたし自身」であることを選ぼうとする少年少女を「純真無垢」なんて言葉で束ねるのは、思春期の恥ずかしさと大変さをまったく無視した鈍感な言葉であり、それ自体が暴力に近いと思ってしまうんです。私がことさら自意識の強い子どもだったせいかもしれないけど。
まあそれを含めた子どもらしさを愛して「少しくらいのトラブルじゃ人の美しさは穢れないんだよ」という意味での純真ならいいんだけど。でも他人に勝手に「純真無垢」とか言う人って大抵そこまで考えてないからさあ。

そういう人間として、氷室冴子の少女へのまなざしの大らかさは非常に魅力的だなあと思っています。