あの日、あのとき、円形で。そして今、吉祥寺で。

お久しぶりでございます。あ、ざっと1年。ひどいぜわたし。
まあ、はてなハイクのほうには普通に顔を出していますが。なにぶんハイクに長文投稿ができるので、だんだんダイアリーを書かなくなってしまうのよね。人間は楽な方に流れてしまうという悪しき例ですな。

さて、お久しぶりのカンゲキロク。「モマの火星探検記」少年社中@吉祥寺シアター

わたしが初めて少年社中に出会ったのは、青山円形劇場で2004年に上演された「ハイレゾ」でのこと。斬新でスピード感のある演出と若さあふれる俳優陣、複雑な人間関係が終盤にどーんと一本につながるストーリー展開にすっかり虜になって、それからはほとんどの作品を観てきている。あのとき観た「ハイレゾ」がわたしの心に刺さらなかったら、この劇団を観続けていないだろう。
だから「モマの火星探検記」の副題が「Inspired by High-Resolution」だと知り、とても期待しながら劇場へと向かった。
結論から言えば「ハイレゾが好きすぎて楽しめなかった作品」なんだけど。
たぶん、いい話だったと思う。体術もかっこよかったし、キャラクターの設定も良かった。でも観ている間「わたしが愛したハイレゾはこれじゃない」という気持ちが強すぎて、なんとも辛い公演だった。森大さんの劇団員として最後の公演で、まじめな役をやっている彼を見るのは久しぶりで、しかもそれがとてもかっこよかったのに、素直に受け止められなかった。
まあ、色々と不毛だということはわかったうえで、自分のために「ハイレゾ」と「モマの火星探検記」の比較レビュー。

★作品のあらすじと構造
この2作品はどちらもふたつのパートで成立している。大きく異なるのはAパート。
ハイレゾ」A
舞台はタオグラードという架空の帝国。イワン・スプートニクはあるディスクのメッセージを聞き、地球外生命体の存在を確信した。その謎を解き明かすため宇宙飛行士を目指すイワン・スプートニクは、仲間たちとともに科学アカデミーで訓練に励むことになる。その中には昔馴染のイリーナ・ソユーズともおり、すべては順調に進んでいるかのように見えた。
しかし、開発を妨害する他国の脅威が迫り、宇宙開発どころではなくなる帝国。
ロケット計画が中止になろうとする中、夢を捨てられないイワンはロケットでの出発を強行突破しようとする。それは、戻る当ても助かる当てもない無謀な挑戦でもあった。
必死で恋人の行動を止めようとするイリーナを振り切り、イワンは「必ず帰る」と言い残して宇宙へと旅立つ。
宇宙開発の技術者だった父は開発中の事故で帰ってこなかった。そして宇宙はまたもわたしの大切な人を奪っていく。飛び立つロケットを見つめながらイリーナは「私、待たないから!」と叫ぶ―――(だいたいこんな感じ。だいぶ忘れてるところもあると思う)

「モマの火星探検記」A
2033年、火星探査のために各国から優秀な宇宙飛行士7名が集められた。その中の一人・モマは悩んでいた。妊娠した恋人にプロポーズするも振られてしまい、父親の死に目には会うことも出来ない。飛行士仲間には、自分の国が海に沈んでしまう者も、母国同士が戦争になりそうな者も、航海中に息子を不幸な事故で亡くした者もいる。自分は何をやっているのか。何のために生きるのか。それを一緒に探すといった父親に会うこともできない。
悩みを抱えながら火星に着いたモマのもとへ、子どもが産まれたという知らせが届く。心から喜び、まだ見ぬ子へのメッセージを録音するモマだが、探査中に事故にあった仲間を助けに行った先で、自分がさらに酷い事故に巻き込まれてしまう。もはや誰も助けることの適わぬ状況で弱っていくモマ。彼を置いていくしかない仲間たち。
そしてモマは最後に恋人のもとへ「必ず帰る」とメッセージを送る。
宇宙開発の技術者だった父は開発中の事故で帰ってこなかった。そして宇宙はまたもわたしの大切な人を奪っていく。そう思いながらも愛情を捨てられない恋人は、モマのメッセージを聞き、「わたし、待たないから!」と叫ぶ。
その頃モマは薄れゆく意識の中で父親の幽霊と出会い、自分の見つけた「なぜ生きるのか」の答えを伝えていた―――

ハイレゾ」「モマの火星探検記」B
ユーリはおてんばな女の子。お母さんにはしょっちゅう「女の子なのに」とため息をこぼされている。今はロケット作りに夢中。会ったことのない父親の部屋で見つけた資料をもとに、友だちとロケット作りにいそしんでいる。
彼女はある日、謎のおじさんに出会う。やたらと宇宙に詳しいその人は、歌を教えてくれたり、ロケットづくりに協力してくれたり、何かと彼女たちの世話を焼きたがる。
宇宙嫌いのお母さんと対立しながらも、小型ロケットはついに完成。
しかし最終テストの日、ユーリはおじさんにが遠くに旅立ったこと、もう会えないことを知る。
お母さんが見守る中、ユーリは仲間たちとメッセージを載せたロケットを飛ばす。飛んでゆくロケットを見つめながらユーリは、今度は自分がロケットに乗って宇宙へ行こうと考えていた。
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もうおわかりだと思いますが、Aパートは親世代、Bパートは子ども世代ということです。宇宙に魅せられた飛行士と、宇宙およびそれを愛する男たちに複雑な思いを抱えている女の話がAパート。Bパートで出てくるその娘・ユーリも宇宙に魅せられ、空高くへと夢を馳せていく。これはそういうスペースロマンなのです。物語は両方とも、宇宙へ行くことを夢見始めたユーリが父親と出会い「はじめまして」と言葉を交わすところで終わります。(「ハイレゾ」では、イワンが手に入れたディスクが、時間を超えたユーリのものだということも明らかになります)
このふたつの話のテーマは「時間を超えてつながる思い」とか「宇宙への情熱」なので、「モマの火星探検記」が「Inspired by High-Resolution」であることには、何の問題もないとは思うのです。
問題はAパートの設定がここまで違うのに、「ハイレゾ」のBパートをそのまま使ったこと。というか「ユーリの母親」の直面する状況が、物凄く違うこと。

★ユーリの母、またはイリーナ・ソユーズ
ハイレゾ」のイリーナ・ソユーズは宇宙飛行士の訓練生です。父親を宇宙開発のために亡くしたことから、宇宙に対して複雑な思いを抱きながらも、
父の思いを理解したくて、宇宙開発に自らの身を投じる。しかし最終的には宇宙飛行士の夢よりひとりの女として行動し、決死の飛行を試みるイワンを止めようとするも「子どもができたの」という最終兵器を持ち出せず、飛び立つロケットを見つめながら「待たないから」と叫び、Bパートでは宇宙からはすっぱり縁を切ったようでいて(それが政治的な理由なのか個人的な理由なのかは明らかでない)宇宙関連の書籍や資料、イワンの手紙は捨てられず、そのくせ宇宙へ興味を持った娘のロケットづくりを妨害し、それでも最終的にロケットを飛ばす娘を微笑んで見守る、アンビバレントな存在です。
父親のことを許しきれないなら、なんで宇宙飛行士になろうと思ったの?
イワンを止めるなら「子どもができたのよ!」と言えばいいじゃない。
宇宙を憎んでいるのに、自分の娘にイワンが憧れていた宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンの名前を付けたのはなぜ?
本当は好きなんでしょ、父親が。イワンの無謀さが。そして何より宇宙が。好きだから今でも許せないんでしょう?
ハイレゾ」は、宇宙に対する愛憎渦巻くイリーナが、ユーリの飛ばすロケットによって自分の中のわだかまりと和解していく物語でもあった。「モマの火星探検記」の「お母さん」は、そのあたりがどうも薄い。
父親が宇宙開発の技術者だったという点は一致している。開発中の事故で死んでしまったことも。恋人が自分を省みず宇宙へ行ってしまったことも一致している。でも、決定的に違うところがいくつかある。
その最たるものは「イリーナは宇宙飛行士だが『お母さん』は一般人」ということ。
「お母さん」も「お父さんを好きだったから理解しようとしすぎて、お父さんみたいな人を好きになって、また宇宙に奪われてしまった」という台詞があるけど、なんかそれ普通なんだよ。自身も宇宙飛行士で「宇宙へのロマンと普通の幸せ」の間でぐらついていたイリーナに比べるとふり幅が薄い。

★モマとイワンのロケットの違い
モマもイワンも宇宙探査が「帰らぬ旅」になってしまったことは一致してる(まあイワンはスーパーナチュラルな理由で生き残っていてもおかしくない世界観ではあったが)。けれど、モマの火星探査はしっかりした国家機関のしっかりしたプロジェクトで、もちろん不測の事態はいくつも起こるのだけど、ちゃんと帰ってこられる旅なんですよね。モマが不幸な事故に巻き込まれただけで、他の宇宙飛行士たちは帰ってきてるし。
イワンの宇宙探査はもっと無謀というか、国はもう「お前たちを宇宙には行かせない」と言っているし、イワンたちの前任は他国に追撃されて死んでるし、ていうか戦争起きるし、もはや確かなサポートは望めない。それを「ふざくんなボケ!」と逆切れして宇宙へ行こうとするのだから、無謀もいいとこです。盗んだバイクで走り出したり校舎の窓ガラスをバットで割るレベルの大暴走です。
もちろん個人的な感覚のレベルでは「恋人と別れる=死んだも同然」みたいに思ってしまうときもあるし、巷には上京するだけで永遠の別離みたいな気分になってしまう歌が山ほどあるので、感情が物理的な状況に勝るということもあると思います。
でも、観客の目線からすると、「モマ」の場合は「お母さん=恋人」がモマのプロポーズを断る理由が、拗ねてるだけっぽいというか、我侭っぽいんですね。モマも女心がわかってないけど、Aパートの恋人には共感できない。というか、初演でこれなら納得したかもしれないけど、イリーナの苦しみを知っている身からすると、恋人は「お前その程度で」感がぬぐえない。
少なくとも、火星からの二度目のプロポーズを断るシーンはいらなかったんじゃないかなあ。モマが帰って来れないことを知ってからプロポーズの録音データを聞いて「待たせてもくれないくせに!」くらいのほうが、この恋人なら良かったんじゃないかなあ。

★「おじさん」の正体
ユーリにロケットづくりを教えてくれる「おじさん」は、ハイレゾとモマではだいぶ設定が違う。
ハイレゾでの「おじさん」の正体はデューク・ヴァンガード。イワンとイリーナの飛行士仲間であり、亡命してきた優秀な宇宙飛行士。一度は飛行士に選抜されるも、病気を抱えているためイワンが繰り上げ合格になってしまう。
Bにおけるデュークの心情はあまり語られないけれど、彼が抱えている、自分の夢を託したイワンへの思い、自分が夢を託したせいで恋人を失ったイリーナへの思い、そしてその娘であるユーリへの思い、いまだ潰えぬ宇宙への思いが、ふたつの物語のハブとしての役割を果たしていた。
モマでの「おじさん」は正体不明の幽霊。最初はユーリにしか見えていない(そのうち他の子ども達にも見えてくるのだけど、その理由は一切告げられてなくて少し片手落ちだなと思った。子ども達には最初から見えていて、幽霊であることが最後にわかる構成でも良かったんじゃないかな)。おじさんの登場シーンはBパートのみなので「ユーリの両親のことを知っている誰かの幽霊」という状況が続く。最終的に「おじさん」が瀕死のモマのもとへ現れ、おじさん=モマの父親・ユーリの祖父ということが明らかになる。
おじさんを演じた唐橋さんはワイルドイケメンなおっさんで、すごく素敵だった。しかしこの設定だと、モマの恋人と父親の関係がまったくわからないんだよな。恋人の父親って微妙じゃないですか。義理の親子クラスの場合もあれば顔すら知らない場合もあるし。
「孫娘に会えなかった息子のかわりに祖父が孫娘の面倒を見る」というのは悪くない設定なのだけど、ラストシーン間近であっさりと「おじいちゃんよ。お父さんのお父さん」というお母さんに「え、知ってたの!?」とこっちも思ってしまった。まだ嫁と舅ならわかりやすかったのに。
お母さんのあそこでの台詞が「単なる説明」になっているのはかえすがえすも残念。モマ父とお母さんの間に何かエピソードがあれば、また一段感動的だったと思う。

★ふたつのパートをつなぐもの
「ユーリとイワン、あるいはユーリとモマが親子である」こと。これがふたつの物語をどーんと繋ぐエピソードなのは、どちらの作品も同じ。

ただ「ハイレゾ」で複層的に繋がれていたいくつかのエピソードは「モマ」において省略されている。
イリーナ・ソユーズが宇宙飛行士を目指し、宇宙を憎み、娘を通して再び宇宙と仲直りすること。
デューク・ヴァンガードが自分の夢を託した男の遺児に出会い、再び夢を託すこと。
イワンとユーリが「まだ見ぬ誰か」への思いを宇宙に託していること。
「父とイリーナ」の構造が「父とユーリ」の構造にも影響を与えていること。
あと、ユーリの名前の由来も、モマは「モマが名付けたいと思っていた名前」なんだけど、「ハイレゾ」では「イワンが憧れた飛行士、ユーリ・ガガーリンにちなんで」なんだよね。「モマ」の世界観だとユーリは女の名前だけど、「ハイレゾ」では男の名前。
もちろん「モマ」においても、あれだけプロポーズを断り、許す気はないことを明言していた恋人が、モマが逝く前の希望を汲んで娘をユーリと名付けたのは泣けるポイントなのだけど、どうしても、宇宙を憎んでいるはず、自分を省みず決死の旅に出た恋人を憎んでいるはずのイリーナが、娘にわざわざ恋人が憧れた宇宙飛行士(男)の名前を付けたというのに比べるとね。どうにもテンション下がるのよね。
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Inspired by High-Resolutionはいいと思うんですよ。
でも、イワン・スプートニクを、イリーナ・ソユーズを、道士や皇帝やタオグラードをなかったことにしてほしくなかった。
あれはわたしの大切な作品だったのに。
確かにわかりやすいとは言いづらいファンタジーで、若さゆえの盛り込み具合が半端ない話かもしれないけど、そういう青さも含めて「ハイレゾ」だったのだし、それを簡単に他作品にドッキングしてほしくなかった。
若い「ハイレゾ」を大事にしたうえで、今の宇宙飛行士譚「モマの火星探検記」を描くことはできたと思う。
ユーリをモマの娘にせずとも、宇宙飛行士を目指すユーリが宇宙を憎む女に出会う話とかもできただろうし、そういう話が観たかった。そういう「Inspired by」が観たかった。
「宇宙少女ユーリ」の後日譚、「ハイレゾ」の続編としての「モマの火星探検記」なら素直に祝福できたのに。
ハイレゾ」がこういう形でしか残らないなら、悲しいとしか言いようがない。
もちろんこれはただの我侭。
もう上演されない作品が山ほどある世の中で、こうして残るだけでもラッキーと言えるとしても。