わたしもまた彼女ではないのです/ロックンロールは鳴り止まないっ!

すっかり演劇レビューブログ化しているインディアンサマーですが皆様いかがお過ごしでしょうか。
わたくしは8月に5本芝居を観に行くという暴挙に出たため、FOIは諦めました。財布的な意味というか、もうこれはキャパシティ的な意味ですね。珍しくいろんな友達と会ったりしていたり、今の仕事の契約が満了するので次を探さなきゃ!というのもある。とりあえずそんなわけで、フレンズ行く人は楽しんできて下さい。

8/21のかんげき→「ダブル」@ル・テアトル銀座
縁あって招待券をいただき、弟と一緒に行ってきました。本当は友人と行く予定だったのですが、急きょ都合が悪くなってしまい。まあ、弟とでかけるなんてめったにないことだし、楽しかったからいいです。
中越典子堀内敬子&山西惇というサラリーマンNEO好きにはたまらない一派がいて、それに主役で絡むのが橋本さとしだったりという、個人的においしいキャスティングで。これがまあ、芝居のテンポが物凄く良くて。職人芸ってこういうことか。あらすじを読んだ時点で「一人二役ネタだったらこう落とすかな」と思ったのですが、途中で「そのオチじゃないだろうな」と思ってしまうくらいさとしさん巧いし。
内容としてはヒッチコックルパン三世を混ぜたような感じかなあ。最後のあれはやりすぎなような気もするけど、あれがなければコメディにはならないよね。最後のフランソワーズとリシャールのやりとりがクールで小気味よかったのでよしとするか。橋本さんのリシャールはエロく、ミシェルは可愛くて、本当に別人に見えるから凄い。しかも終盤、少しだけど「できる男」モードの爽やかさとしも見れたし。好きだなあ。さとしさんはNEOに出ていてもおかしくないよねと思ったけど、ワイルド系のいい男で実は行動が変だと某部長とちょっとばかしかぶって某部長よりも知名度が低いということに。


8/25のかんげき→「ロックンロール」@世田谷パブリックシアター
武田真治市村正親秋山菜津子とそろえてこのタイトルだったら歌うのかと思ったら、特にそんなことはなかったぜ!いや、ストレートプレイだというのは知っていましたが、こんなに静かな劇だとは思っていませんでした。プラハの春から1990年までの、自由を求めるチェコ人青年ヤンとマルクス主義者のイギリス人教授マックスの人生を描いた物語で、すごく面白かったんだけど、チェコスロバキアの歴史と共産主義衰退の歴史の薄い知識を総動員して見ていたので非常に疲れました。観る前に「存在の耐えられない軽さ」を読んでおいて本当に良かったよ…。しかもマックスの妻エレナはギリシア文学研究者(対象はサッフォー)という設定で、「共産主義はわかるけどプラハの春って何?サッフォーって何?」みたいな人にとってはとーても辛かったものと推測。
タイトルの「ロックンロール」はヤンにとって自由の象徴。自由といっても闘ったり求めたりすることではなくて「僕をちょっとほっといてくれ」という程度のもの。その「僕をちょっとほっといてくれ」が叶えられずに、優秀な学生としてケンブリッジにまで留学したヤンは若い日々を無為に燻らせていく。マックスは共産主義の信奉者で、10月革命の年に生まれたことを誇りに思っている。共産主義の矛盾やソビエトの横暴には気付いているけれど、それが間違っていると認めたら、ソビエトナチスドイツに打ち勝ったこと、マルクス主義尊いものとして研究してきた人生までも「間違っている」と認めることになるんじゃないかと思っている。「僕は自由になりたい」と「それでは共産主義は間違いなのか」という問いが何度も立てられ、そのたびにふたりはすれ違う。「第三の道」という考え方が取り上げられている今の世代としては「共産主義じたいはうまくいかなかったけど、十分に評価するべき視点はあるし、もっと良いやり方で取り入れていけるんじゃない?」と思うけれど、マックスにとっての共産主義とは人生そのものであって、それを簡単に否定することはできない。だからこそ90年のイギリスのシーン、共産主義が崩壊してもなお、共産主義に迫害されてしまったヤンがなお一切の私心なくマックスへの感謝を伝えに来るシーンは感動的でした。

ベルリンの壁が崩れた時 テレビを観ながら祖父がぽつりとね 『莢子 私が50年正しいと思っていた考え方は間違っていたかもしれないよ』って
戦争が始まる前から人々のためにこれが良かれと思って信じてきた考え方だったけれどやっぱり駄目だったみたいだなあって…(後略)」
よしながふみ「愛すべき娘たち」)

マックスの生き方を見て、この台詞を思い出したんだよね。この「祖父」っていうのもマルクス主義研究の学者さんだった。こういう風に思いながら冷戦末期を迎えた人って多いんだろうな。
マックスが共産党に協力していた資料は存在するけれど、ヤンの資料と照合しなければ、それがヤンのためだということはわからない。マックスはヤンの来訪を、自由化されたチェコで教鞭をとるにあたってゴシップの種になる「資料」を始末し口止めするためだと思った。けれどヤンの資料は共産主義政権がすでに処分していた。だから、ヤンは本当に感謝したくて、ただそれだけでイギリスにやってきた。それまで「自分が信じてきたことは間違いだったのか」という問いにマックスは苛まれていたのだけれど、間違いとか正しいとかじゃなくて、とにかく「ヤンは共産主義に青年時代を奪われたけれど、マックスには救われて感謝している」ということ。たくさん存在する真実の中に、そういった思いもまた存在しているということ。ソビエト共産主義はたくさんの人を苦しめた上で崩壊したけれど、ひとがひとを思う気持ちというのは、科学や政治や思想を超えたところで心を結び真実となる。その直後、娘婿がマックスに暴言を吐くシーンがあるのだけれど、そこで頑固じじいのマックスは怒らないんだよね。つまり、彼はもう「たったひとつの真実」に囚われなくても良くなったんだっていうことだとわたしは思いました。
しかし内容が難しかったのも事実。思うに、日本にはちょっとなじみのない設定なんだよな。共産主義下のチェコスロバキアって。だからこそ、そのへんを抑えていなくても感動的な演出があればもっと一般受けしたと思うよ。それこそミュージカルにしちゃうとか。
1幕は市村さんの妻、2幕は娘という2役で本当に別人に見える菜津子おねえさまが凄く良かったです。武田真治は映像だとうさんくさめなんだけど、声がイノセントなせいか純粋な好青年がよく似合う。キャラメルの西川さんはナイジェル(娘婿)のボンクラっぷりもなかなかですが、序盤でやっていた審問官が良くて、彼のがっつり悪役が観てみたいなあと思いました。前田亜季ちゃんが思いのほか舞台向きっぽい動きと声で、今後が楽しみになった。

上演されなかったあの日のレビュー

おとついのかんげき→「宝塚BOYS」@シアタークリエ
招待券を頂いたので観てきました。若い男性俳優がわいきゃいしてるタイプの芝居ではあるのですが、とてもしっかりした脚本と演出で、とても面白かったです。
女の聖域である宝塚に実在した男子部。そこに集った7人の青年の9年間の栄光なき挫折の物語。もちろん現在も宝塚に男子部はなく、身も蓋もないことを言えば彼らの9年間は日の目をみることがない飼い殺しの日々なのですが、それを必要以上に暗いものにせず、さわやかな青春物語でした。
夢が叶いかけては潰え、戦争で生き残ったことを皆どこかで後ろめたいことのように抱えていて、それでも「ここでがんばった日々は自分にとって大切なものだ」と言い切れるほどに切実にがんばり続けたこと。夢に向かって努力したことの意味を、夢がかなわないという結末でここまで描き切る脚本は、シンプルなようでいてとても練られていると感じました。現代でも夢の舞台を目指して挫折していく人は山ほどいるけれど、みんなにある種の救いが残るような舞台だった気がします。わたしは母と行ったのですが、ちょうど現地で売れない役者の後輩に会い、彼はどんなふうに彼らの結末を捉えたのかなと気になりました。まあ、彼らには「駄目でもがんばる」のではなく「絶対にやり遂げる」という決意を固めてほしいものだなと思いましたが。
そして「生き残ってしまった以上、死んだ戦友に胸を張って報告できるよう頑張らなければ」という思い。M.O.Pもそういうエピソードが出てきたし、ちょうど「父と暮らせば」を読み返していたので、個人的にこのテーマ続くなあと。でも、死んだ人が何も語らない以上、前を向いて生きていくひとの出した答えってここに帰結するのかもしれないなと改めて思った夏の日々でした。
7人のうち4人は東宝舞台系、2人は映像系、ひとりは…小劇場系なのかな?やはり普通に立っていると映像系の人たちはスタイルがちょっと抜けていいのですが、レビューにひとたび入ると身体の見せ方をぐっと知っているのは東宝舞台系の4人で、王子オーラが出てくるのには感激しました。ダンサー役の東山さん、彼のアルンジョラス@レミゼは物凄く!物凄くかっこよかったのでまたやってほしいのですが、ご本人も自分のカンパニーを持っているだけあってダンス能力が高く、タンゴのシーンは垂涎ものでした。個人的にはもっと粘らない系のダンスのほうが好きなのですが、あそこまで上手いと好み云々の前にとにかく凄いよね。石井一彰さんは見た目も王子だし歌も所作も綺麗だし、遠くないうちにマリウスだのルドルフだのをやるような気がします。

夢と人、時間、そして神様

きのうのかんげき→「さらば八月のうた」劇団M.O.P紀伊國屋ホール
わたしが生まれた年にできた劇団がとうとう解散ということで、今まで本当に見逃し続けていた劇団だけに「今回だけは見逃せない!」と思って当日券で突撃してきました。キャンセル待ちでした。わたしの後ろに並んでいた人が座れたかどうかは知らないというギリギリっぷり。痺れるぜ…っ。そんなこんなで前説を聞き逃してしまいました。2時間45分というストプレにしては長めの内容でしたが、とてもよかったです。派手な事件が起こる物語ではないけれど、じんわりと胸が熱くなるような、奇跡や神様を信じてみたくなるような。今でもあの「別れのうた」が耳の奥に残っています。
この芝居を観ながらふと思い出したのは、大学時代の先輩の言葉でした。当時わたしは学生劇団でミュージカルを作っていたのですが、ある先輩がぽつりと「すごいよね。この世にはいっぱい音楽があるのに、わたしたちしか知らない歌がここにあって、こんなに良い歌だなんて」と言ったのです。客観的に聞いて良い歌かどうかは判断できませんが、わたしたちにとっては繰り返し歌った、どうしようもなく大切な歌の数々。今でも歌えます。でも、誰も知らない歌。芝居だってそう。わたしたちにとってはまさに青春でも、世間一般に知れ渡っているわけではない、手作りの不格好な、それでいて情熱に満ちた、誰も知らない芝居。
もちろんM.O.Pは長いことやっている、テレビでも有名な俳優さんも所属している劇団で、わたしたちの不格好な青春とは違う。「さらば八月のうた」だってDVD発売予定が出ている。けれど、お芝居はやはり劇場で観るもので、ソフトは保存ツールとしては秀逸だけれど、その空気が残されるわけじゃない。マキノさんの戯曲も、緑子さんや小市さんの芝居もこれから観られるだろうけど、それはM.O.Pじゃない。でも「今ここで行われている芝居」や「今ここで奏でられている音楽」が残すものは確実にある。
「別れのうた」を巡り巡って、彼女が歌ったように。歌えたように。
そして、小さな奇跡やありふれた偶然が結ばれて、いくつもの絆が生まれていくように。
色んな人が色んな風に大切にしているものの形が見れて、すごく幸せな舞台でした。月日が満ちたんだなと思いました。なにしろぎりぎりで駆けこんだものですから席は紀伊國屋の一番後ろで、でもセンターで、だから「偶然聞いたラジオの最終回がとても良い番組だった」みたいな気持になったのです。
わたしは第三舞台にも夢の遊眠社にも東京サンシャインボーイズにも間に合わなかった人間で、古参の演劇ファンの方々の弁を聞くにつけ彼らの舞台を観てみたかったなあと思ってしまうのですが、M.O.Pを観れて良かったとか、これからも観たい芝居は観ていこうと思うと同時に、観られなかったからといって「外されている」わけではないんだと感じました。いいラジオ番組が、古くからのリスナーも、今日初めて聞いたリスナーもまとめて抱きしめるような包容力があるように。いい芝居が、芝居ファンにも非芝居ファンにも優しいように。そういう芝居にはきっと演劇の神様が宿るのだとわたしは思ったし、信じています。
26年間、本当にありがとうございました。わたしは最後に居合わせただけの人間ですが、それでも心から感謝したいと思います。素敵な時間を、どうもありがとう。

あ、緑子さんは本当にいい女だったし、小市さんは本当に美しいお声で、かっこよくて色っぽくて素敵すぎました。もう小市さんと緑子さんのやりとりを思い出すだけでニヤニヤが止まらない病です。物販で小市さんを見かけましたが、あの声で「いかがですか」とか言われたら財布のひもが崩壊する予感がしたので、少し遠くから横顔をガン見するだけにしたというか、ちょっと、あの、それでもだいぶ「キャー!!」とかいう気持ちでした。

彼のいた夏へ

こんしゅうのかんげき→「また逢おうと竜馬は言った」演劇集団キャラメルボックスサンシャイン劇場

わたしの好きなキャラメル芝居ベスト3を挙げると「スケッチブックボイジャー」「カレッジ・オブ・ザ・ウインド」そして「また逢おうと竜馬は言った」だと思います。特に「竜馬〜」は大好きな話で、うちには2000年版(南塚さん主演)もあり、何度も観ました。あのラストシーンは傑作だと思うし、だからこそ今回再演になると聞いて、喜び勇んで出掛けたわけです。
すごくエンターテインメントでした。
正直、穴の多い脚本ではあるんです。だいたい拳銃で「みね打ち」ってなんだよって話だし、広重の苗字はちょっと歴史をかじったひとなら「歌川」も「安藤」も知ってるはずだし。でも、そんなこと正直キャラメルボックスに求めても仕方がないのです(きっぱり)。綿密な伏線が見たいのなら映画を観ればいい、本を読めばいいってことで、これは「かっこわるい奴が必死でがんばるところが一番かっこいい」という、成井さんらしい美学が全部を貫いているという意味で、素晴らしい作品だと思います。
そして、その作品に対して命を吹き込む役者の汗と涙とまっすぐな佇まい。佐東さんは「風を継ぐ者」についでの主演でしたが、前のめりになりすぎず、抑えるべきところはちゃんと抑えた感じで、熱いながらも信頼できる岡本だったと思います。岡田さんの竜馬は親しみやすいあんちゃんといった感じで可愛かった。あと、石原さんの魅力に目覚めました。石原さんをとりわけ認識するようになったのはキャラメルではなく社中の「ファンタスマゴリア」に客演していたときなんですけど、あのときより輝いていました。とてもとてもかっこよかった。姿勢も綺麗だし。わたし個人的に「夏への扉」は彼主役でいってほしいなと思いました。三浦さんはしんちゃんのときは馬鹿可愛くて、土方は…土方もちろんかっこよかったけど、どっちかってーと近藤さんっぽい佇まいだよなあ。
岡内さんのケイコは、なんだかつついたら泣きだしそうで痛ましかったです。ぎゃんぎゃん煩くて可愛げがなくてヒステリック…という、史上最低クラスに性格のアレなヒロインですが、今回はカオリちゃんも美人だったので、ちやほやされて育った美人姉妹感がなんともリアルでした。あとは温井さんが最近とても良いと思います。

「志士は溝壑に在るを忘れず、勇士は其の元を喪うを忘れず」。この言葉を岡本が口にするシーンはやっぱり凄かったです。岡本の言葉は全然状況に合ってないんだけど、だからものすごく可笑しくて情けないんだけど、お客さんはみんな岡本がなんでこの言葉を口にするか知っている。本当に情けない彼がどれだけ、ケイコのために身体を張ったか知っている。だからこそ「しょうがねえな」と思って笑いながら、誰よりもかっこ悪くてかっこいい岡本を見ている。
まるで竜馬のように。
こういうのが「シーンの力」なんだなあと思いました。

あと「ケイコさんはお前が好きなんだ。世界中で何十億って男がいるのに、どういうわけかお前なんかが好きなんだ、俺じゃなくて」という台詞は、わかっていたのに胸をずしんと突かれてしまいました。
命がけで守った女が求めているのは俺じゃない。
それはとてもかっこ悪いけど、そんな女のために命がけで戦った岡本はやっぱりヒーローなのです。

読書記録・7月

読書メーターを使い始めたので、まとめ機能使ってみるよ!ネタバレを容赦なんかしないよ!


7月の読書メーター
読んだ本の数:7冊
読んだページ数:2105ページ

猫島ハウスの騒動 (カッパ・ノベルス)猫島ハウスの騒動 (カッパ・ノベルス)
葉崎シリーズ3段。このシリーズにとって緩いロマンスと本の蘊蓄が思いのほか大事だということが明らかに。マグノリアの巡査、アゼリアの巡査に比べると七瀬君はそういった意味でも不憫だ。いい子なのに。
読了日:07月12日 著者:若竹 七海
悪童日記 (Hayakawa Novels)悪童日記 (Hayakawa Novels)
ボタンをかけちがえたまま大人になるのは切ない。ぼくらも、両親も、おばあちゃんも、将校も、女中も、兎っ子も、みんな。
読了日:07月12日 著者:アゴタ クリストフ,クリストフ、アゴタ,Agota Kristof
だれかのいとしいひとだれかのいとしいひと
色々行き詰ってたので別の本をほったらかして読む。安心した。映像的でなんともいえない空気感がある。いくえみ綾の漫画みたいな小説。いい意味でね。
読了日:07月15日 著者:角田 光代
存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
「愛してる」の形が違うことは不幸なのか、あるいは愛さえあれば幸福なのか。どれもこれも中庸が一番のような気がする。そして人間なら仕事も充実していて、最後には夫が戻ってきた「と思えた」マリー=クロードが一番いい人生だったのかもなあ。
読了日:07月26日 著者:ミラン・クンデラ
絶叫委員会絶叫委員会
とにかく「あたしはメーテルじゃない。あたしだってメーテルが欲しい」にやられた。言葉ってすごいなあ。電車の中で読んでいるとたまに噴き出しかけて怪しいひとになった。
読了日:07月28日 著者:穂村 弘
リセット (新潮文庫)リセット (新潮文庫)
タイムトラベル・ラブストーリー傑作選をつくるとしたら確実に選ばれるであろう1作。や、正確にはタイムトラベルじゃないけど。ちょっと「たんぽぽ娘」っぽい趣もありつつ、最後の再会のところでは涙腺緩んだ。
読了日:07月29日 著者:北村 薫
秋月記秋月記
面白くないわけじゃないんだけど、全体的にモヤっとする。萌えそうで萌えないちょっと軽めの時代小説。姫野弾正の仇討ちとか、見せ場のはずなのに何となく笑えてしまうし、男装美少女も「なぜ男装なのか」にエピソードがあまりなくて単に「男装なんです」「そうですか」「主人公に恋してるんです」「そうですか」くらいなのが残念だ。もっと藩政に集中したり、あるいは橋づくり〜葛づくりのくだりを掘り下げて書けば面白かったろうに。
読了日:07月30日 著者:葉室 麟

読書メーター

レクイエム・フォー・イノセンス

おとついのかんげき→NODA・MAP「ザ・キャラクター」@東京芸術劇場 中ホール
爆笑問題のニッポンの教養」での特集を観て、またほうぼうでのレビューの安定した評判のよさを見て、これは行かなくてはと思い立って出かけました。素晴らしかった。行って良かったです。

「モチーフになる事件」が存在している芝居って、それ自体は珍しくもなんともないのだけれど、年齢とともに「事件」がリアルなものになっていく。例えば日航機墜落なんかは「そういうことがあった」というレベルでの認知なのだけど、今回のテーマ(オウムの一連の事件)については「あのときわたしは」という言葉で語れる、事件に近い何かを内包して受け止めざるを得なくて、だからこそずいずいと迫って来るものがあった。以下ネタバレあるので畳みます。

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本当は酷い愛とロマンス

「心に残っている本はなんですか?」
この問いかけ、すごく難しいと思いませんか?
というのも、わたくし現在絶賛就職活動中でして。就職活動といっても教養試験→面接試験と続くタイプのものです。で、いろんなところに面接を受けに行っているわけです。そんで、今日はひとつの種類の中での本命を受けに行ってきました。大本命は別です。念のため。
そこで、こう尋ねられたわけです。
どうしよう、とわたしは思いました。そりゃ大事にしてる本はいっぱいあって、最近読んだ中では名作ならアゴタ・クリストフの「悪童日記」は壮絶に面白い話だったし、桜庭一樹の「ファミリーポートレイト」は思わずボロボロ泣いてしまうほど感動したし、児童書なら「あしながおじさん」が好きで、「夏の庭」は夏になると必ず読み返したくなるし、「西の魔女が死んだ」はおばあちゃんのメッセージで毎回泣いてしまうし、「八日目の蝉」も大好きだ。「ソフィーの世界」も何度読んだか知れない。栗田有起の「お縫い子テルミー」は人生の節目節目で何度も読み返すんだろうと思う。「ジェイン・エア」も「虚栄の市」も捨てがたい。「駆け込み訴え」にはゾクゾクさせられる。「女生徒」の美しい詩のような文体にはうっとりする。宮部みゆきの「火車」でヒロインが震える手で目録をめくりながら「お願いだから死んでいて、お父さん」と思うシーンは考えるだけで背中に震えが来るし、「魔術はささやく」の締めくくりの一言「家に帰るんだよ」は日本小説史上に残る名ラストシーンとか言っちゃうよ。
しかし、ここは就職面接なのです。
わたしは逡巡した結果、「夏目漱石先生の『こころ』です」と答えました。
勿論『こころ』は大好きな小説で、味わい深いし様々な読み方ができて素敵です。「精神的に向上心のない者はばかだ」とか「ねえ君、恋は罪悪ですよ」とかいい台詞も色々あります。雑司ヶ谷の墓地なんかで繊細そうな文学青年にこんなことを言って「…えっ」とどぎまぎさせられたら、なんか色々ゴチソウサマデシタな気分になること請け合いです。
しかし、なにぶん就職面接なので「どこで知りましたか?」「国語の教科書で『先生の手紙』の章を読み感銘を受けて全部読みました」「そうですか」的なやりとりで終わってしまいました。ここで『こころ』の魅力について滔々と説くのもなんか違うと思ったので、話は深入りしなかったのですが。しかしわたしは後悔しています。面接の内容云々はとりあえず置いといて、「好きな小説を聞かれたから教科書に載っていた名作を答えた女=あまり読書家でない」と思われたんではないかと気にしているのです。
本当は、違うんだ。
夏目漱石の小説は比較的つるりと読めるんだけど、語り手はかなり偏った人間であることが多い。語り手が他の人物について述べるときは、騙されないようにしないといけない。例えば『坊っちゃん』の主人公は「親譲りの無鉄砲で子どものころから損ばかりしている」ような人間だ。そんな人間が「赤シャツはがまんできない!やなやつだ!腐ってる!」とかいうのだから、そこは坊っちゃんの性格を差し引いて「ちょっと待てよ?」と考えなければならない。そもそも、坊ちゃんと山嵐みたいな人間が傍にいたら、大人しい性格の人なんかひとたまりもないんじゃないかと思う。うらなりだってどう思ってたか真意はわからない。悪気がないけど気遣いもない人間にひっかきまわされて出て行ったように思えなくもない。
わたしが『こころ』で一番興味深いと思ってるのは「お嬢さん=奥さん=静」なんです。「先生の手紙」におけるお嬢さんはかなり嫌なところのある女の子で、Kに気のあるそぶりを見せて先生に焼きもちをやかせようとしていたり、なんか色々と賢くてこすっからい。でも「私」から見た奥さんはおとなしくて控え目な人で、先生の真意なんかとは無縁に見える。先生は「静は何も知らないはずだ」的なことを言っているけど、あんなにずるい少女だった奥さんが、本当に何もわかってないのか。
もっと言えば、Kの気持ちに本当に無自覚だったのか。
下宿先に学生がいる。年頃の娘は学生が気になってモーションをかけてみたけれど、どうにもつれない。そのうち、学生は自分の友人を連れてくる。ひとりとひとりで一緒にいることは難しいけれど、ふたりとひとりならばそんなに違和感もない。その気やすさも手伝って、娘はある悪戯を思いつく。友人と仲良くしているところを学生に見せつけ、気を引いてやろうと思ったのだ。ちょっとくらいかまやしないわ。あのひとはあんなにあたしにつれないんだもの。その計画は功を奏したかに思えた。けれど、だんだんと友人の娘に対する態度が変わってくる。ちょっとやりすぎたかな、と思う。あたしが好きなのは学生さんで、彼の友達はいいひとだけど恋とは違うっていうか。
そう思った矢先、学生は彼女に求婚する。嬉しいのと恥ずかしいのと、友人に対する後ろめたさと。
そして、友人は突然に頸動脈を切って命を絶つ。


どう考えても、お嬢さんが何も知らずにいられるわけないだろ。
むしろ静は「Kは自分のせいで死んだ」と思っていても不思議はない。そこまでは考えないにしても、後ろめたさとか罪悪感とか、それは先生の専売特許じゃないはずだ。「先生の手紙」におけるお嬢さん評が先生の恋は盲目状態によるもので、お嬢さん=奥さん=静は元来とろい女性だったという可能性についても考えてみたけど、「私」とのやりとりを見る限りでは賢くて優しい女性のようだし。
そんな、賢くて優しい、かつて自分が惚れた女を伴侶にしておきながら人生から疎外し、定職につきもせず「子どもはできない、天罰だからさ」とか言い腐り、挙句の果てに理由も告げずに自殺する先生。最低だー!!
このままじゃ静は「自分に惚れたふたりの男を死なせた女」になってしまう。そんなのあんまりじゃないか。酷い話だ。しかし、これは思うに「恋愛から女性が排除されていた時代の話」なのであって…


という風に、何重にも考察を深められるのが夏目先生の小説の凄いところだとわたしは思っている、ということを言いたかったわけ。でも面接で本の話をあんまり深めるのもねえ。