Dreams on Ice 2010のテレビ放映分

フィギュアスケートってファンとしてきちんと向き合おうと思うと芝居や映画以上に大変なもので、だからこそ日常の色々にかまけて全然フィギュア関連のブログ書いてないんですけど、観るのが好きなことに変わりはないわけなので、テレビのみですがDreams on Iceを観ました。
ワールドカップ中とはいえ、昼間1時間ってどうよ!とか、その貴重な1時間に差し込まれる使い回しの煽りVとか、真央ユナ対決とかもうどうでもいいじゃないとか色々思うところはありますが、せっかく来てくだすった海外ゲストが飛ばされなかったのは良かったと思います。

鈴木明子「ジェラシー」
今季SPとのこと。リベルタンゴのときは「あっこちゃんのタンゴいい!」な感じだったのが、今回は「あっこ様のタンゴ素晴らしい!」みたいな気分に。彼女、目力が強いのはいいんだけど、それが前に出過ぎて怖い部分もあっただけに、この「ジェラシー」はもっと引きも含めたアピールというか、色気というかを感じさせる、つまり「相手の男もこれなら怖がらないぜ!一緒にアバンチュールしちゃうぜ」っていうタンゴだったと思う。
村上佳菜子「Be Italian」
「ポスト○○」とか言われがちな佳菜子ちゃんですが、もはや唯一無二の「村上佳菜子」を目指すようなタイプのスケーターだと思った。ミス・ボルティモア・クラブでの「大人の考えたセクシー」ではなくて、なかなかに迫力があるんだけどあざとくないポップなBe Italianで、この曲をこんな風に滑れる人は他にいないだろうな、と。
勿論、この曲の意味とかシチュエーションを考えるとベストマッチとは言い難いし、いかんせんあっこちゃんのタンゴという大人度高いものの後だったから「やっぱりこどもだな」と思ったけど、媚びたり「大人の考えたセクシー」あるいは「わたしの考えたセクシー」に染まったりせず、「自分がこの曲をやる」という気持ちがちゃんとあったように思う。
ちなみにわたし映画のNINEは未見なので、この曲のイメージは日本初演で田中利花さん(レミゼでテナルディエ夫人を演じるような人だ)が演じていた貫禄ある熟女娼婦で、あまりにも佳菜子ちゃんからは遠いため「もっと大人になってからにしようや」とも特に思わないんだな、これが。あんまり趣味のいい選曲とはいいかねるけど、去年よりかはだいぶ佳菜子スタイルが見えたし。
むしろシカゴやムーランルージュだったら「もっと大人にry」と思ったかもしんない。自分の基準が謎。
高橋成美マーヴィン・トラン「Feeling Good」
メディアでの扱いは悪いのに、なぜか羽生君カットで高トラ放送。や、高トラ観れるのは嬉しいけどさ。
トラン君の色気が3割増えたような気がする。シンプルな白シャツがはためく様が絵になっていた。このあたりの年頃の男の子って、ちょっとしたことで雰囲気が男っぽくなるものなんだけど、トラン君が今年はそれなのかもしれないと思ってみた。
これまたガッツポーズが似合わなそうな曲です。これをやりきれるようになったら高トラもすっかりシニアだろうな。
ステファン・ランビエール「WAY」
「女の子はみんなボクのこと好きでしょ?」オーラがにくいねっ!色男!最近ラテンな曲ばっかで、そりゃランビエールがラテンやったら盛り上がるだろうけどずるいよなって気分でいたから、こういう明るくて楽しくてノリがよくて色っぽい曲で滑るランビエールが見れて嬉しかったです。
はー、しかしファンを「僕の子猫ちゃん」と呼んでいそうなひとだなあ。
ラウラ・レピスト「Jupiter」
DOI仕様のプロ。お心遣いありがとうございます。氷上を気持ちよさそうにすいすいとゆく、レピストさんらしいスケーティングを堪能しました。
平原さんの歌うJupiterはそんなに好きじゃないのだけど、木星じたいは彼女のスケール感ある滑りに似合うと思うので、クラシック版、あるいはショー用ならサラ・ブライトマン版とかで本採用を考えてみてはどうでしょう。幻想の海もタンゴも素敵だったけど、こういうスケールの大きい曲でのスケーティングの良さ堪能プロが見たい。あと、音楽に助けられたのかもしれないけど、レピスト比で背中とか腕の使い方が柔らかくなってたことに感動した。
安藤美姫「Comin' Home Baby」
ショートパンツで色っぽい曲という前評判だったから、楽しみである一方「またセクシー系か」と思ってはいたのですが、実際に演技を観たらそんなことはなかったぜ☆
どっちかというと少年っぽくてユニセックスな感じで、笑顔も可愛い良いプロでした。帽子使いも色々と工夫があって楽しげで、ちゃんとショーナンバーしてた。有香さんがSOIでやりそうな演目だなっていう。現役選手のEXって、あくまで競技に活かすこと前提のものが多いのだけれど(弱点克服とか新しい一面を〜とか)、このEXは純正・ショーナンバーという感じで、なんていうか「始まったな」感がありました。
しかし白衣装のバラードと赤×黒衣装のアランフェスも披露したそうで。僕らの安藤さんは今季もやる気満々みたいです。あと邪な視点からいえば、ああいう風に上半身の露出が少ないとどうしてもふとももに意識が行ってしまうわけで、肩やデコルテや背中が拝めなかったことは残念ですが、ふともも派の皆さんの気持ちがわかったような気がするのでした。
エフゲニー・プルシェンコ「MALADE」
なんつーか、スター様だった。スター様がそこにはいた。ランビエールのスター様っぷりとは別の何かが。しかしその「何か」が何なのかよくわからないという。うーん。困った。でもいいやプルシェンコさんだし。
高橋大輔アメリ
ランビエールは自分が振付してもランビエールだったとさ。笑。どこを切ってもランビエールらしい動きが入っていて、これが若いスケーターなんかだったら「ランビエールが滑ればいいんじゃね?」と確実に言われそうなプログラム。ただ、高橋君も十分に濃いスケーターなので、どう進化していくのか見たい気持ちが強い。
個人的にLuv Letterがあそこまで開放的になった彼なら、この「アメリ」でも飛ばせるんじゃないかと思ってます。あと、マイムはもっとしっかりやったほうがいいと思うの。
しかしまあ、アメリっていい曲だよね。ロマンティック全開で。個人的にはサラ・マイヤーアメリが大好きだったので、女子でも誰かそろそろアメリやんねえかなと思っている次第。ミンジョンなんかは似合いそうだ。アメリ
浅田真央「バラード1番」
彼女が本気でバレエ的になるために必要なこと、鍛えるべきことが詰め込まれているプログラムだと思った。
彼女、ふんわりした動きは綺麗で、だからこそバレエの才能があるといわれるんだろうけど、いまいち動き自体にタメがない。例えば個々のポーズでの手先は綺麗なんだけど、そこから動き出すときに指先にあまり神経が行ってない。それがかつて「ふわふわ」と言われた所以であり魅力なのだけれど、そのふわふわ感をきちんと武器にするためには、もう一段階上を目指す必要があると振付師は考えていて、だからこそ身一つで勝負するため&バレリーナの世界に浸らせるためにロマンティックかつシンプルな衣装なんだろうし、この曲でこの振付なんじゃないかなあと思った。競技スケーターとしての向上心にあふれた、とても要求の高いエキシビジョンだった。
しかし、あのスカート丈ならもっと布は厚い方がいいと思う。エレガントな丈なのにぱんつ透けるとなんだか申し訳ない気分に。ジャンプが飛びづらかったとしても、テッサが五輪で着てたやつくらいの質感は必要だ。背中見せはグッド。

すっかり飛ばされたリード組の「タイスの瞑想曲」がやたらと良さげだったのでBSが楽しみです。あすこの姉弟はロマンティックなプログラムもいけるのが強みだと思う。強化中らしいリフトも頑張ってほしい。羽生君がオディールだったとかオデットだったとかいう話なのも気になりますし、南里君の自分メドレーも楽しげでした。村主さんのベリーダンスも面白そう。ダイジェストですらなかった町田君のダークアイズの評判が高いらしいことも気になります。
そして五輪入賞者のくせにダイジェストにされちまった小塚崇彦君ですが「逃走中」では身体能力を活かして大活躍でした。ぶっちゃけ今までのどの衣装よりも忍者ルックのほうが似合っていたので、彼にはぜひああいう和風な格好でZABADAKの「ポーランド」あたりをぎゅいんと滑ってほしいものです。変拍子だし。

エンドレス・ネバーランド

きょうのかんげき→少年社中「ネバーランド」青山円形劇場

少年社中を観はじめたのはちょうど20歳の頃で、当時大学でお芝居をやっていたわたしは「ハイレゾ」のクライマックス、主人公がヒロインを残してロケットに乗り宇宙へと旅立つシーンにボロボロと泣いたものでした。こんな風な芝居がしたい!と当時のわたしが思っていたものがそこにはありました。例えば「ブロードウェイみたいな」「四季みたいな」「新感線みたいな」というのとはまったく違いました。あの舞台は自分が今いる地平線の上にあって、頑張ればここまで行きつけるんだ!という憧れそのものでした。
その後、社中は本当に色々な人と観ていて、当時の芝居仲間にも勧めたり、劇団員の方とも微妙な感じでつながりができたり、そのつながりも普通に社会人やってる上では保てるのはせいぜいメール程度だったりします。6年のうちにわたしも芝居したり卒業したり就職したり退職したりとそれなりに年を重ねてきました。観る芝居も小劇場からだんだんと大手やらミュージカルやらにシフトしました。劇団も、客演を呼んだり三部作やったり主催がジャ●ーズの脚本・演出やったり歌舞伎アレンジをやったり、色々なことがあったようです。
思えば社中を観始めた頃は、いつも終わるとぐったりと疲れ果て、終演後1時間近くうわの空でした。それがいつの間にか大してうわの空にもならなくなり、ちっとも泣かなくなり、しかし良い舞台で比較的簡単に泣いてしまう自分の性格はそのままなので「わたしの求める世界は、もう社中には存在しないのかもしれない」と、寂しいながらも思っていたのです。そして、いつか「わたしの求める感動は、もう芝居には存在しないのかもしれない」と思う日が来るかもしれないと、恐れと共に思うようになりました。

正直、そろそろ潮時かと思っていたときに観た今回の「ネバーランド」。正直、やられました。

ストーリーは「ピーターパンたちがフック船長の陰謀で大人にされてしまった!」というもの。ちょっとロビン・ウィリアムズ主演映画「フック」を彷彿とさせます。あの映画でフック船長に攫われたのはピーターパンの子どもでしたが、お芝居で攫われるのはダーリング家の長男・ジョンの子どもたち。ピーターパンは救いを求めてダーリング家に来たのに、逆にきょうだいを巻き込んでしまうというわけです。しかも、かつてウェンディが縫い付けてくれた「影」は少年の姿のまま再びピーターパンのもとを離反して、フック船長と手を組みたいと言い出す始末。情けない話だ。

以下、ネタバレ含めて箇条書き

続きを読む

切実さとは何か

週末、知人の主宰する舞台を観に行った。大学時代にお世話になった先輩がプロデュースしていて、他にも出演者やスタッフに友人がたくさんいた。
大学卒業とともに芝居の道を選んだり、あるいは新卒で入った会社を辞めてオーディション受けていた頃と違い、30前になっても舞台を続けている人っていうのは、それなりに腹を括っているし、気合いの入った、興味深くて面白い舞台だったと思う。
でも、やはり知人が関わっている舞台に対する目線って厳しくなってしまって、普通ならあまり気にしないであろう音とか光とか、裏の足音やごたごたした感じとか、そういうところまで考えて観てしまって、正直疲れた。
はっきり言ってしまえば、あの内容であの値段は高い。同じようなアプローチで3500円の芝居、いくらでもある。むしろスタッフワークの完成度は3500円の芝居の方が高かった。
あと、たぶん演出家の意図をスタッフはちゃんと把握してない。それって学生演劇とあまり変わらないんじゃないの?って感じ。大きなシステムで動く大劇場の芝居なら、スタッフが駒になっているくらいの方が色々と揺らがないけど、そうじゃないなら、ちゃんと演出家の意図をスタッフはわかっていないといけないと思う。
スタッフで参加していた友人に結末の意図を聞いたら「俺の解釈と演出家の解釈は違うと思うから」と言ってしまうようじゃね。コミュニケーション、足りてないんじゃないの?と思わざるを得ない。
まあ、こんなことを書いている理由というのが、主宰の友人でありわたしの先輩でもある人がブログに「これは彼(主宰)にとって必要な話なんだと思った」的なことを書いているのと同時に、「彼が信頼できるスタッフに恵まれるといいと思った」的なことも書いていて、なにそれ主宰は悪くないけどスタッフが力量不足なのがいけないって言いたいの!?的にキレたからなんだけど。
そもそも、主宰にとって必要な話かどうかなんてわたしには関係ない。芸術にはパーソナルさが必要であって、パーソナルな部分がない演劇なんて空虚もいいところなんだけど、パーソナルな部分だけ見せられるのって自慰じゃん。わたしはたといお世話になった方であっても、自慰を見るために金払ってないよ。
そこに「わたしにとって」切実な話があったか・なかったかは嗜好性の問題だ思うけど、じゃあそれを「こういうことなんです」っていう、一定の見せ方をしてこそプロなんじゃないの?って感じ。そこの部分でコンセンサスが取れなかったことを、スタッフの力量不足のせいだけにしないでほしい。
確かに、スタッフワーク的に気合いが途切れた部分はけっこうあって、1曲どう考えても音割れぎりぎりで気持ちの悪い曲もあったし、効果音もひっどいのがあったし、光の言いたいことと音の言いたいことに非常に隔たりがあって「おいこら」と思ったりしたけどさ。
主観的な切実さが起点になっている表現は、それを客観的かつ冷徹に眺めた上で、切実さを再構築しないといけないものだと私は思っているので、陶酔のまま終わらせないでほしいよ。大学生の芝居なら何も気にしないんだけど、彼らは立派にプロだもの。
くだんの先輩は「彼(主宰)がたべていけるひとになれるかどうかは重要じゃない」と書いていたけど、やっぱり食べていけてなんぼだもの。そういう風になってほしいもの。そうじゃなきゃ魂のエリートという名のニートだよ。
これが3500円の舞台なら、こんなにモヤモヤしなかったことは確実なんだけど。でもさすがに、様々な意見を内包しつつ「3500 円の舞台だと思った」って感想を言うほど子どもでも悪人でもプロでもないので、本人に気付かれるところでは言わないのだった。
あとパンフに社会問題について書くタイプの演出家ってどうよ。そういう主題じゃなかったのに。
坂手洋二くらい、社会問題をみっちり落とし込んだ作品を書く人ならいざ知らず、現代社会の孤独とか病理とかを知った風に書かれると、どうもね。中二かよ!っていう。
舞台がらみでこういう風に腹立たしくなったのは久しぶりだったよ。
そちら側へと続く道はすでに切り捨てているわたしに言わせれば、芝居すんなら「子ども時代の続き」という安全地帯にいつまでもいないでほしいのだ。


そんなに偉そうなこと本人を前にしたら絶対に言えないし、言わないんだけど。だいたい素人のわたしなんぞに言われたくないだろうし。
しかし、こういうことを吐き出さなければメールで大喧嘩をおっぱじめかねないので、吐き出すだけ吐き出してみたという。

スゴ本ブログに影響されたので5冊で恋愛を語ってみる

ひとまず前置きをしておくと、新プロ情報が出始めるまでフィギュアスケートについて有益な情報はこのブログからは得られないと思います。というのも私生活の多忙は続いているからで。そしてフィギュアスケートについて考え始めると情報収集とかで時間かかってしまうのね。だから、更新はするけどフィギュア情報は他のファンの皆様にお任せする所存です。だがひとことだけ言いたい。シークエンスの地位が向上するかと思ってぬか喜びしていたらハーフループ込は3連続扱いってことで、そんなことはなかったぜ☆ぐおー
まあ、コンビネーションを1.1倍は散々各方面で主張していたことなので、よかったんじゃないかなあっていう。

さて、ひとつ課題が終わったのでやってみたかったことをやってみる。
5冊で恋愛を語ってみよう

オフには参加するどころじゃなかったのですが、大学時代の課題で似たようなものがあったなーと。そのときは特に本に限定されてはおらず、映画や演劇でも可だったので適当にレポートでっちあげた。後輩の男の子は谷崎を中心に恋愛とフェティシズムについて書いていた。そのことはよく覚えているよ。

学生時代の倫理の授業のように述べるなら、わたしは人間を「コミュニケーション的動物」だと思っています。同じ国の言語で喋っていても、言葉がどうしようもなく通じないというのはよくあることで。だから、他人とあまり苦労せずに言葉が通じたときの喜びって結構すごい。恋愛中のふたりの間には、ふたりにしか通じないコミュニケーションの流儀みたいなものがあって、それが構築されていく過程は「嬉しい・楽しい・大好き!」ってなるんだけど、それがだんだん「あのとき同じ花を見て美しいと言ったふたりの 心と心が今はもう通わない」となっていく。その一連について色々な角度から語ってみようという試み。

さて、ここでわたしが取り上げるのは以下の5冊。
1.太宰治「駆け込み訴え」

走れメロス (新潮文庫)

走れメロス (新潮文庫)

どれだけ好きでも、どれだけ尽くしても絶対に報われないユダの独白。とてもきれいな言葉のオンパレードなんだけど「駆け込み訴え」の切なさは、この言葉は語っている相手に対するものじゃなくて「あの方」に受け止めてほしかったものに他ならないことだと思う。「あなたの気持ちはわかっているよ、ありがとう」。この一言が欲しくて、でも絶対に手に入らないから取り返しのつかないことをするユダ。そしてユダの心に残酷なまでに無関心だったろうキリスト。ぼろぼろと砕けていく心の音が聞こえる感じで、この「伝わらなさ」の絶望感は恋愛小説として読むに相応しいと思うのでした。

2.夏目漱石「こころ」

こゝろ (角川文庫)

こゝろ (角川文庫)

大事だと思っていたものが「本当にほしかったもの」とは限らない。人を傷つけて手に入れて、でも手に入れた瞬間に手に入れたものがさほど大事じゃなくなってしまう。先生とKとお嬢さんの三角関係のせつなさはそこにあると思う。お嬢さん=静はKを失った先生からひそかに疎外され続ける。先生は存在しないKとの対話をずっと続けている。そこに愛はあるんだろうか。このテキスト「先生が本当に好きだったのはKだけど、そのことを認めたくなくてKを傷つけた」という読み方もあって、実際にそういう研究もされているんだけど、取り返しのつかないことが起きてしまった以上、先生は自分を受け入れて生きていくべきだったと思う。恋情がかき消えても関係は続く。そして人と人とはコミュニケーションを取りながら生きていくべき生き物なんだから。それすら投げ捨ててしまう先生には、彼を思う様ぶん殴って「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」と言ってくれる人が必要だったと思うんだ。

3.江國香織「神様のボート」

神様のボート (新潮文庫)

神様のボート (新潮文庫)

生きている人間とのコミュニケーションの失敗が前2冊なら、存在しない人間とのコミュニケーションにかまけて大事なものを失っていく人の話を。母親・葉子はずっと「あの人」を待って暮らしている。娘・草子は「あの人」を待っている母親の場所から抜け出し「あたしは現実を生きたいの」と主張し始める。「あの人=パパ」は存命かつ実在の人物であるけれど、彼女たちの前に出てきて何かを伝えてはくれない。だから母と娘の距離は少しずつ、しかし決定的に離れていく。ラストシーンの「あの人」と葉子の邂逅をわたしは初見で妄想だと思ったのだけれど、それはおそらくわたしが草子の立場で読んでいたからだろう。
葉子の前に現れた「あの人」が妄想であれ現実であれ、「パパ」のいない世界を生き始めた草子にとって、あの邂逅は母と自分がもはや同じ世界には生きていないことの証明なんだと思う。本気で恋をするって、自分にとって本当に大事なもの以外は全部捨てて神様のボートに乗り込むことでもあるんだろうなあ。そんな恋がしたいか否かは別として。でもこれは「恋」を選んだ結果、母親が娘を捨てる小説なんだと思うよ。

4.桜庭一樹「私の男」

私の男

私の男

「神様のボート」が恋とそれ以外の断絶小説なら、「私の男」は恋する男女が断絶していく話だと思う。花と淳吾は家族で恋人同士で共犯者。ここまで色んなものが捻じれて絡まっていたら、絶対にほどけなくなりそうなんだけど、それでも花は淳吾を捨てる。淳吾は完全に花の前から消える。
この小説における恋愛(というには語弊があるけど)のすごいところは、第一章での花と淳吾の仲はどうしようもなく元には戻れなくて、それでもふたりの間にコミュニケーションの齟齬が少ないところ。付き合い長いけどもうだめかもしれない、という相手との恋愛後期よりも如実で深く絡み合ってるから、尚更それが辛い。だがしかし「こんなふたりが離れられるのか」と思った瞬間、花の感傷も未練もすっぱり掃き捨てるように、最初からなかったみたいに淳吾が消えてしまうからね。あれは淳吾の優しさなんだろうか、酷さなんだろうか。ともかく花も淳吾も互いを忘れないだろうし、それこそが花にとって淳吾が「私の男」たる所以なんだと思う。ぜったいに忘れないひとがいる、というのはせつないけれど強い。

5.栗田有起「お縫い子テルミー」

お縫い子テルミー (集英社文庫)

お縫い子テルミー (集英社文庫)

「お縫い子テルミー」は片思い→失恋の話(ざっくり)。テルミーは絶対に自分を好きになってくれない人を好きになる。彼が欲しいと思う。けれどテルミーは「自分を好きじゃない彼」が好き。一見、絶望的な状況だけど、その事実を受けてテルミーが取る行動がとても美しい。「彼にだけはだめなやつと思われたくない」と思って裁ちばさみを握るテルミーはかっこいい。彼女が自分の足で自分の道を歩く限り、彼女の好きなシナイちゃんは自分の足で自分の道を歩き続ける。交わることだけが恋愛の結論じゃない。強く正しく生きていく果てに、もしかしたら「ねじれの位置」だと思っていたベクトルが交わるかも知れなくて、でもそれは神様が決めること。だから私たちは、自由でなくてもかまわないというほど自由な世界を歩いて行くのだ。自分の足で、自分の言葉で。
テルミーの祖母が語ったという「足は泥にとられても、見上げりゃ空には星がある」という言葉がいい。足元でわだかまる恋に疲れても、手足を動かして一生懸命働いていれば、綺麗な景色が見えるんじゃないかなって気になる。報われない愛に向き合うことで果てしない希望を手に入れるテルミーは、わたしの憧れの女の子なのだ。


うん。大事にしているものが「言葉が伝わるかどうか」だというのがよくわかった。
まあ結婚しておらず、現在ステディな相手もいないということは、わたしの恋愛に対する記憶というものは自ずと失恋の記憶であって、だからこそこういうラインナップになったのかもしれない。そして漫画を入れようと思ったら入らなかったよ。よしながふみの「きのう何食べた?」とか川原泉の「月夜のドレス」とかについても書きたかったのに。
ええと、番外編としてはしょっちゅう色んなところで挙げている「誰かを好きになった日に読む本」収録の「The End of the World」を推したいところです。このテーマの子ども向けアンソロジーの最後になぜこの話があるのか考えながら読むと面白い。
さらに、本じゃないから挙げられなかったけれど、恋愛とコミュニケーションについて話すなら外せないのはこれ。

この舞台のクライマックスにおける「恋」のシークエンスは本当にすごい。「醜い見た目に美しい心」を持った人間が背を向けて愛を告白し、「心と正反対の言葉が口をつく」少女が罵倒することで愛を告白し、そのあとでふたりの物語を聞いていた、破局寸前だけど明らかに互いに思いを残していたカップルが「ずっといっしょにいてあげるから」と面と向き合って気持ちを伝える。それはもう美しい光景でした。好きな人にシンプルな言葉で思いのたけを伝えることが、ここまで美しくて素晴らしいことだなんて!と落涙するほどに。
まあ、そのあとで半端ないダークなオチもつきます。大王作品なので。堀北真希が初舞台ならこの作品をやればよかったのに、と地味に思っていることは秘密。

あー、すっきりした。以上、5冊で恋愛を語ってみました。みんなもよかったら挑戦してみてね♪ちゃんちゃん。

…適当かッ!!!

きっと涙は音もなく流れるけれど

朝は基本的にめざましテレビを見ているんだけれど、ここ何ヶ月か「神様のカ○テ」という書籍のCMが入る。「凄い!」「泣ける!」「全国の書店員さん○人が泣いた」的なアレね。ご存知の方も多いかと。
あのねー、わたしあれ嫌いだわ。笑。
「神様のカ○テ」は未読だから判断はできないけど、CMの作りがすごくいやだ。まあ「この病院では〜」ってことは病院の話だと思うんだけど、作家さんは「泣ける話」を作ったわけじゃないと思うんだよ。そもそも「泣く」っていうのは非常に個人的な行為だから、個人が体験として「泣いた」「泣けた」というのはいいんだけど、それを普遍的なものとして語ることに違和感を禁じ得ない。
この本がどういう話で、どういう作家の本で、どんなふうに感動的なのかは知らないけど、誠実な物語なら「泣ける話を書こう」「泣かせてやろう」というのが目的じゃないと思うんだ。書きたいテーマとか伝えたいメッセージ、関係性エトセトラ何がしかがあって、その描写やディテール、美しいものごとの積み重ねが結果として「泣ける話」になるならいざ知らず。同様に「ト○レの神様」っちゅー曲も泣けると話題だそうだが、その話題になり方ってどうだろうと思うね。どんなにいい曲でも、泣けるかどうかは受け手の感性によるものなんだから。
この世に「わたしが」泣けた音楽や映画や小説やテレビや演劇は山ほどあるけど、「みんなが」泣けたものなんて存在しないんだから。そういう涙絞り取り産業って、作り手よりも伝え手の誠実さを感じなくて嫌いだ。こっちの感動まで安っぽく一般化される気がする。
こないだも「ONE PIECEで泣けたシーンランキング」みたいな記事を見たけど、あれだけ正しく少年漫画している作品で、だからこそ熱い展開や泣けるシーンがあるだろうに、そこだけ取り上げるっていうのもなあ。
少年漫画と言えば2月号ユリイカ荒川弘藤田和日郎の対談で「ニーナの話*1の扱われ方」についてのシークエンスがあって、「あれが大げさに取り上げられることに違和感がある」と荒川さんが語っていたのだけど、それも頷きながら読んでしまった。あの話、わたしも好きだし大事だと思うけど「泣けるエピソード」って言われると凄い違和感があるのよ。そもそも鋼自体がエピソード単体でどうこうって漫画じゃなくて(短編集じゃないし)ニーナの話の位置付けは「生命とどう向き合うか」「人間の定義にどこで線を引くか」というテーマの最初の発露でもあるからこそ、あれだけで泣けるだ感動だって言われてもね。名作の泣けるシーンやエピソードってあるけど、でもそれって「泣ける」という切り口で語られるべきではなくて「名作だ」「面白い」「読む価値がある」「素晴らしい」という切り口で語られるべきなんじゃないかな。その中で「わたしは」泣けた、という文脈が存在するならいざ知らず、お涙頂戴的な煽りは作品に対して失礼だと思う。実際、涙と金を絞りとってやろうぜ☆的な作品も数多存在しますが、そこは今回は置いておく。
物語って世に出た時点で受け取る側のもので、みんなが泣けたという映画で全然泣けないこともあるんだから、その物語が自分にとってどうかけがえがなかったか、どう胸に迫ってきたかが大切なんじゃないの。
というわけでここに「『泣ける話』宣伝撲滅委員会」を結成します。あくまで個人的に。


未読の状態で広告手法だけ批判するのも片手落ちだけど。
うーん、あまり自分に必要な話じゃない気はするんだよな。
やっぱり一度読んだ方がいいんだろうか…ってそれ術中にはまってるじゃないか…
でも例え読んでボロ泣きしたとしても、あのCMをいけすかないという事実に変化はないと思うよ。

*1:2巻収録。追いつめられた錬金術師が娘のニーナと飼い犬のアレキサンダーを材料にしてキメラをつくってしまう話

きみみたいにきれいな女の子

世の中本当に美人が多いと最近とみに思う。
美人というか可愛い子、綺麗な子かなあ。こないだロンハーのAKG47なる企画を漠然と見ていたんだけど、みんな結構可愛いのね。でも、あれに出てた子の一部に対しては「これなら友だちのあの子のほうが可愛いな」みたいにも思うのね。今の世の中、それなりにお金があってファッションに興味がある子なら大抵可愛いと思う。メイクの技術とかも凄いし。
しかし美人にもランクというものがあるのだ。
この世には「美しいというだけで他人より多くお菓子をもらえる」所謂Sランクの美人が存在する。そこに入れない層は「可愛い」「美人だ」と言われても大して得をしない。褒められてちょっと嬉しい程度。
かくいうわたしも当然「美人と言うだけで他人より多くお菓子をもらえる」タイプではない。だから、子どもの頃からずっと「可愛い」「美人だ」と言われる機会があっても、素直に喜べずにいた。「あの子みたいにお菓子たくさんもらえないのに褒めるなよ」という感じで。でもって思春期には「あたしなんか全然美人でも可愛くもないのに褒めないで!」と逆ギレしていたのである。
可愛くないな素直に喜んどけよ!と褒めた側は思ったろう。でもさあ、Sランクでないと褒めては貰えるけどちやほやはしてもらえないからね。なんか褒められ損?みたいな。

そしてある時気付いた。
「お菓子を多くもらえる」Sランク美人とそうじゃない女の間にある、暗くて深い谷?高くて険しい崖?のような存在に。
まあ…当然なんだけどね。美人は才能だもの。小学校のリレー選手がみんな五輪どころかインターハイに出られるレベルじゃないのと同じように。小学校のクラス会で「あの子東大行ったんだって」「お医者さんだって」がトピックになるのと同じように。集団の中で可愛い・綺麗・美人な子でも、その才能を活かして生きていけるとは限らないのだ。学年1位でも稀なんだから、学年で30位以内に入るレベルなら尚更なのだ。可愛いからって、何がどうってことはないのだ。
―――そりゃ肉食にもなるわな、女子。
自分の猟場が美貌にあるか/ないかを子どもの頃から判別する必要があるんだからな。

だからといって他人の容姿を褒めるのがいけないとは思わないけど。わたし自身、大学くらいから、褒めていただく機会があれば笑顔で「ありがとうございます」と返すようにしている。褒めた方の気分を害さずにすむし、褒められるのはやっぱりいいものだしね。褒められたいもん。思春期のわたしだって褒められるのが嫌だったわけじゃないもの。単純にそこまでの才能がないことに劣等感を感じていただけで。

でも、最早「美人」は取り立てて特別な言葉ではないような気もする。女の子の服装やメイクやダイエットが男の目意識じゃないと言われて久しいけど、それってつまり「美人を趣味にするか否か」という問題じゃないかと思う。
成績のいい子が「わたしは勉強が好きだ」と思って、資格取得やキャリアアップを志すように、運動神経のいい子が「わたしはスポーツが好きだ」と思って、アクティブ系の趣味を開拓するように、それなりに綺麗な子が「わたしは美しさへの努力が好きだ」と思って美容を頑張るだけじゃないかという。

そこにいるだけで、他人より多くお菓子をもらうことはできない。
でも、可愛いね綺麗だねと言ってもらうことは単純に嬉しい。自分も楽しい。だから美人を志す。単純にそういうことじゃないかなあ。
美人だってだけでお菓子を多くもらえるわけじゃない人間のほうが、根本的には強靭かもしれないのだよ。


おわり。

ようやく「告白」を読んだので

本屋大賞を獲る前から「君はこの話好きそう」といろんな人に言われていたのですが、ようやく読んだよ。おっきい試験が1個終わったから、自分へのご褒美的な感じで。でも自分へのご褒美が「告白」ってどうよ。

告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)

告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)

結論から言うと、少し期待しすぎたのかもしれないと思った。
話自体は面白かったんだけど、わたしがミステリに求めているものが薄かったというか。後味の悪い話は好きなんだけど、先生の話、美月の話、母親の話と積み上げてきた薄氷の上に立つような薄気味悪さや正義とは、真実とは何かというところが少年ふたりの話でものすごく浅はかになっている気がする。まあ、むしろ「こんなくだらない子どものせいで先生の娘は死んだんだ」というところに落としたいのかもしれないけど。でも、そこまでのギリギリのリアリティが少年Aの告白で薄れてしまった感があって。彼の目論見が嘘なのかと思っていたら、最後の告白で真実性が証明されちゃったしな。ちょっとこの落とし前の付け方は現実との乖離がすごい。その乖離の中に真実味を滲ませる桜庭一樹みたいな書き方ならまだしも、ここかよ!ってところで現実から浮遊しちゃったから違和感がぬぐえなかったのでした。
わたしの好きな後味の悪さは胃の奥がさあっと冷たくなるようなもので、そういうのを勝手に期待したから拍子抜けしてるんだよなあとは思う。後味の悪さマニア歓喜な感じではなかったな。でも映画はちょっと楽しみです。
後味が悪いといえばこのへん。
プレゼント (中公文庫)

プレゼント (中公文庫)

構成に甘さがあったり当たり外れが激しかったりするんだけど、この人の小説を好きなのは後味が悪いからに他ならない。うわー気持ち悪い!なにー!もーやだ!と思いたい人にお勧め。
でもって、後味が悪い以外に特に何もないタイプの小説はこれ。
クール・キャンデー (祥伝社文庫)

クール・キャンデー (祥伝社文庫)

この最後の一言のために小説が構成されて、背筋ぞわーっ!みたいな。
そんで今年公開の映画原作と言えばこれもお勧め。
悪人

悪人

ラストの寂りょう感とどうしようもなさは絶品だと思う。ちなみに主演・妻夫木聡でヒロインが深津絵里っていうのはなかなかのセンスだと思う。これでようやく天地人のイメージを払しょくできるのね!と思ってしまうあたり間違ってるけど。しかし岡田将生は「悪人」であの大学生をやって「告白」ではウェルテルか!なんていうか売れてるなあ。いいことだ。