きっと涙は音もなく流れるけれど

朝は基本的にめざましテレビを見ているんだけれど、ここ何ヶ月か「神様のカ○テ」という書籍のCMが入る。「凄い!」「泣ける!」「全国の書店員さん○人が泣いた」的なアレね。ご存知の方も多いかと。
あのねー、わたしあれ嫌いだわ。笑。
「神様のカ○テ」は未読だから判断はできないけど、CMの作りがすごくいやだ。まあ「この病院では〜」ってことは病院の話だと思うんだけど、作家さんは「泣ける話」を作ったわけじゃないと思うんだよ。そもそも「泣く」っていうのは非常に個人的な行為だから、個人が体験として「泣いた」「泣けた」というのはいいんだけど、それを普遍的なものとして語ることに違和感を禁じ得ない。
この本がどういう話で、どういう作家の本で、どんなふうに感動的なのかは知らないけど、誠実な物語なら「泣ける話を書こう」「泣かせてやろう」というのが目的じゃないと思うんだ。書きたいテーマとか伝えたいメッセージ、関係性エトセトラ何がしかがあって、その描写やディテール、美しいものごとの積み重ねが結果として「泣ける話」になるならいざ知らず。同様に「ト○レの神様」っちゅー曲も泣けると話題だそうだが、その話題になり方ってどうだろうと思うね。どんなにいい曲でも、泣けるかどうかは受け手の感性によるものなんだから。
この世に「わたしが」泣けた音楽や映画や小説やテレビや演劇は山ほどあるけど、「みんなが」泣けたものなんて存在しないんだから。そういう涙絞り取り産業って、作り手よりも伝え手の誠実さを感じなくて嫌いだ。こっちの感動まで安っぽく一般化される気がする。
こないだも「ONE PIECEで泣けたシーンランキング」みたいな記事を見たけど、あれだけ正しく少年漫画している作品で、だからこそ熱い展開や泣けるシーンがあるだろうに、そこだけ取り上げるっていうのもなあ。
少年漫画と言えば2月号ユリイカ荒川弘藤田和日郎の対談で「ニーナの話*1の扱われ方」についてのシークエンスがあって、「あれが大げさに取り上げられることに違和感がある」と荒川さんが語っていたのだけど、それも頷きながら読んでしまった。あの話、わたしも好きだし大事だと思うけど「泣けるエピソード」って言われると凄い違和感があるのよ。そもそも鋼自体がエピソード単体でどうこうって漫画じゃなくて(短編集じゃないし)ニーナの話の位置付けは「生命とどう向き合うか」「人間の定義にどこで線を引くか」というテーマの最初の発露でもあるからこそ、あれだけで泣けるだ感動だって言われてもね。名作の泣けるシーンやエピソードってあるけど、でもそれって「泣ける」という切り口で語られるべきではなくて「名作だ」「面白い」「読む価値がある」「素晴らしい」という切り口で語られるべきなんじゃないかな。その中で「わたしは」泣けた、という文脈が存在するならいざ知らず、お涙頂戴的な煽りは作品に対して失礼だと思う。実際、涙と金を絞りとってやろうぜ☆的な作品も数多存在しますが、そこは今回は置いておく。
物語って世に出た時点で受け取る側のもので、みんなが泣けたという映画で全然泣けないこともあるんだから、その物語が自分にとってどうかけがえがなかったか、どう胸に迫ってきたかが大切なんじゃないの。
というわけでここに「『泣ける話』宣伝撲滅委員会」を結成します。あくまで個人的に。


未読の状態で広告手法だけ批判するのも片手落ちだけど。
うーん、あまり自分に必要な話じゃない気はするんだよな。
やっぱり一度読んだ方がいいんだろうか…ってそれ術中にはまってるじゃないか…
でも例え読んでボロ泣きしたとしても、あのCMをいけすかないという事実に変化はないと思うよ。

*1:2巻収録。追いつめられた錬金術師が娘のニーナと飼い犬のアレキサンダーを材料にしてキメラをつくってしまう話