スゴ本ブログに影響されたので5冊で恋愛を語ってみる

ひとまず前置きをしておくと、新プロ情報が出始めるまでフィギュアスケートについて有益な情報はこのブログからは得られないと思います。というのも私生活の多忙は続いているからで。そしてフィギュアスケートについて考え始めると情報収集とかで時間かかってしまうのね。だから、更新はするけどフィギュア情報は他のファンの皆様にお任せする所存です。だがひとことだけ言いたい。シークエンスの地位が向上するかと思ってぬか喜びしていたらハーフループ込は3連続扱いってことで、そんなことはなかったぜ☆ぐおー
まあ、コンビネーションを1.1倍は散々各方面で主張していたことなので、よかったんじゃないかなあっていう。

さて、ひとつ課題が終わったのでやってみたかったことをやってみる。
5冊で恋愛を語ってみよう

オフには参加するどころじゃなかったのですが、大学時代の課題で似たようなものがあったなーと。そのときは特に本に限定されてはおらず、映画や演劇でも可だったので適当にレポートでっちあげた。後輩の男の子は谷崎を中心に恋愛とフェティシズムについて書いていた。そのことはよく覚えているよ。

学生時代の倫理の授業のように述べるなら、わたしは人間を「コミュニケーション的動物」だと思っています。同じ国の言語で喋っていても、言葉がどうしようもなく通じないというのはよくあることで。だから、他人とあまり苦労せずに言葉が通じたときの喜びって結構すごい。恋愛中のふたりの間には、ふたりにしか通じないコミュニケーションの流儀みたいなものがあって、それが構築されていく過程は「嬉しい・楽しい・大好き!」ってなるんだけど、それがだんだん「あのとき同じ花を見て美しいと言ったふたりの 心と心が今はもう通わない」となっていく。その一連について色々な角度から語ってみようという試み。

さて、ここでわたしが取り上げるのは以下の5冊。
1.太宰治「駆け込み訴え」

走れメロス (新潮文庫)

走れメロス (新潮文庫)

どれだけ好きでも、どれだけ尽くしても絶対に報われないユダの独白。とてもきれいな言葉のオンパレードなんだけど「駆け込み訴え」の切なさは、この言葉は語っている相手に対するものじゃなくて「あの方」に受け止めてほしかったものに他ならないことだと思う。「あなたの気持ちはわかっているよ、ありがとう」。この一言が欲しくて、でも絶対に手に入らないから取り返しのつかないことをするユダ。そしてユダの心に残酷なまでに無関心だったろうキリスト。ぼろぼろと砕けていく心の音が聞こえる感じで、この「伝わらなさ」の絶望感は恋愛小説として読むに相応しいと思うのでした。

2.夏目漱石「こころ」

こゝろ (角川文庫)

こゝろ (角川文庫)

大事だと思っていたものが「本当にほしかったもの」とは限らない。人を傷つけて手に入れて、でも手に入れた瞬間に手に入れたものがさほど大事じゃなくなってしまう。先生とKとお嬢さんの三角関係のせつなさはそこにあると思う。お嬢さん=静はKを失った先生からひそかに疎外され続ける。先生は存在しないKとの対話をずっと続けている。そこに愛はあるんだろうか。このテキスト「先生が本当に好きだったのはKだけど、そのことを認めたくなくてKを傷つけた」という読み方もあって、実際にそういう研究もされているんだけど、取り返しのつかないことが起きてしまった以上、先生は自分を受け入れて生きていくべきだったと思う。恋情がかき消えても関係は続く。そして人と人とはコミュニケーションを取りながら生きていくべき生き物なんだから。それすら投げ捨ててしまう先生には、彼を思う様ぶん殴って「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」と言ってくれる人が必要だったと思うんだ。

3.江國香織「神様のボート」

神様のボート (新潮文庫)

神様のボート (新潮文庫)

生きている人間とのコミュニケーションの失敗が前2冊なら、存在しない人間とのコミュニケーションにかまけて大事なものを失っていく人の話を。母親・葉子はずっと「あの人」を待って暮らしている。娘・草子は「あの人」を待っている母親の場所から抜け出し「あたしは現実を生きたいの」と主張し始める。「あの人=パパ」は存命かつ実在の人物であるけれど、彼女たちの前に出てきて何かを伝えてはくれない。だから母と娘の距離は少しずつ、しかし決定的に離れていく。ラストシーンの「あの人」と葉子の邂逅をわたしは初見で妄想だと思ったのだけれど、それはおそらくわたしが草子の立場で読んでいたからだろう。
葉子の前に現れた「あの人」が妄想であれ現実であれ、「パパ」のいない世界を生き始めた草子にとって、あの邂逅は母と自分がもはや同じ世界には生きていないことの証明なんだと思う。本気で恋をするって、自分にとって本当に大事なもの以外は全部捨てて神様のボートに乗り込むことでもあるんだろうなあ。そんな恋がしたいか否かは別として。でもこれは「恋」を選んだ結果、母親が娘を捨てる小説なんだと思うよ。

4.桜庭一樹「私の男」

私の男

私の男

「神様のボート」が恋とそれ以外の断絶小説なら、「私の男」は恋する男女が断絶していく話だと思う。花と淳吾は家族で恋人同士で共犯者。ここまで色んなものが捻じれて絡まっていたら、絶対にほどけなくなりそうなんだけど、それでも花は淳吾を捨てる。淳吾は完全に花の前から消える。
この小説における恋愛(というには語弊があるけど)のすごいところは、第一章での花と淳吾の仲はどうしようもなく元には戻れなくて、それでもふたりの間にコミュニケーションの齟齬が少ないところ。付き合い長いけどもうだめかもしれない、という相手との恋愛後期よりも如実で深く絡み合ってるから、尚更それが辛い。だがしかし「こんなふたりが離れられるのか」と思った瞬間、花の感傷も未練もすっぱり掃き捨てるように、最初からなかったみたいに淳吾が消えてしまうからね。あれは淳吾の優しさなんだろうか、酷さなんだろうか。ともかく花も淳吾も互いを忘れないだろうし、それこそが花にとって淳吾が「私の男」たる所以なんだと思う。ぜったいに忘れないひとがいる、というのはせつないけれど強い。

5.栗田有起「お縫い子テルミー」

お縫い子テルミー (集英社文庫)

お縫い子テルミー (集英社文庫)

「お縫い子テルミー」は片思い→失恋の話(ざっくり)。テルミーは絶対に自分を好きになってくれない人を好きになる。彼が欲しいと思う。けれどテルミーは「自分を好きじゃない彼」が好き。一見、絶望的な状況だけど、その事実を受けてテルミーが取る行動がとても美しい。「彼にだけはだめなやつと思われたくない」と思って裁ちばさみを握るテルミーはかっこいい。彼女が自分の足で自分の道を歩く限り、彼女の好きなシナイちゃんは自分の足で自分の道を歩き続ける。交わることだけが恋愛の結論じゃない。強く正しく生きていく果てに、もしかしたら「ねじれの位置」だと思っていたベクトルが交わるかも知れなくて、でもそれは神様が決めること。だから私たちは、自由でなくてもかまわないというほど自由な世界を歩いて行くのだ。自分の足で、自分の言葉で。
テルミーの祖母が語ったという「足は泥にとられても、見上げりゃ空には星がある」という言葉がいい。足元でわだかまる恋に疲れても、手足を動かして一生懸命働いていれば、綺麗な景色が見えるんじゃないかなって気になる。報われない愛に向き合うことで果てしない希望を手に入れるテルミーは、わたしの憧れの女の子なのだ。


うん。大事にしているものが「言葉が伝わるかどうか」だというのがよくわかった。
まあ結婚しておらず、現在ステディな相手もいないということは、わたしの恋愛に対する記憶というものは自ずと失恋の記憶であって、だからこそこういうラインナップになったのかもしれない。そして漫画を入れようと思ったら入らなかったよ。よしながふみの「きのう何食べた?」とか川原泉の「月夜のドレス」とかについても書きたかったのに。
ええと、番外編としてはしょっちゅう色んなところで挙げている「誰かを好きになった日に読む本」収録の「The End of the World」を推したいところです。このテーマの子ども向けアンソロジーの最後になぜこの話があるのか考えながら読むと面白い。
さらに、本じゃないから挙げられなかったけれど、恋愛とコミュニケーションについて話すなら外せないのはこれ。

この舞台のクライマックスにおける「恋」のシークエンスは本当にすごい。「醜い見た目に美しい心」を持った人間が背を向けて愛を告白し、「心と正反対の言葉が口をつく」少女が罵倒することで愛を告白し、そのあとでふたりの物語を聞いていた、破局寸前だけど明らかに互いに思いを残していたカップルが「ずっといっしょにいてあげるから」と面と向き合って気持ちを伝える。それはもう美しい光景でした。好きな人にシンプルな言葉で思いのたけを伝えることが、ここまで美しくて素晴らしいことだなんて!と落涙するほどに。
まあ、そのあとで半端ないダークなオチもつきます。大王作品なので。堀北真希が初舞台ならこの作品をやればよかったのに、と地味に思っていることは秘密。

あー、すっきりした。以上、5冊で恋愛を語ってみました。みんなもよかったら挑戦してみてね♪ちゃんちゃん。

…適当かッ!!!