切実さとは何か

週末、知人の主宰する舞台を観に行った。大学時代にお世話になった先輩がプロデュースしていて、他にも出演者やスタッフに友人がたくさんいた。
大学卒業とともに芝居の道を選んだり、あるいは新卒で入った会社を辞めてオーディション受けていた頃と違い、30前になっても舞台を続けている人っていうのは、それなりに腹を括っているし、気合いの入った、興味深くて面白い舞台だったと思う。
でも、やはり知人が関わっている舞台に対する目線って厳しくなってしまって、普通ならあまり気にしないであろう音とか光とか、裏の足音やごたごたした感じとか、そういうところまで考えて観てしまって、正直疲れた。
はっきり言ってしまえば、あの内容であの値段は高い。同じようなアプローチで3500円の芝居、いくらでもある。むしろスタッフワークの完成度は3500円の芝居の方が高かった。
あと、たぶん演出家の意図をスタッフはちゃんと把握してない。それって学生演劇とあまり変わらないんじゃないの?って感じ。大きなシステムで動く大劇場の芝居なら、スタッフが駒になっているくらいの方が色々と揺らがないけど、そうじゃないなら、ちゃんと演出家の意図をスタッフはわかっていないといけないと思う。
スタッフで参加していた友人に結末の意図を聞いたら「俺の解釈と演出家の解釈は違うと思うから」と言ってしまうようじゃね。コミュニケーション、足りてないんじゃないの?と思わざるを得ない。
まあ、こんなことを書いている理由というのが、主宰の友人でありわたしの先輩でもある人がブログに「これは彼(主宰)にとって必要な話なんだと思った」的なことを書いているのと同時に、「彼が信頼できるスタッフに恵まれるといいと思った」的なことも書いていて、なにそれ主宰は悪くないけどスタッフが力量不足なのがいけないって言いたいの!?的にキレたからなんだけど。
そもそも、主宰にとって必要な話かどうかなんてわたしには関係ない。芸術にはパーソナルさが必要であって、パーソナルな部分がない演劇なんて空虚もいいところなんだけど、パーソナルな部分だけ見せられるのって自慰じゃん。わたしはたといお世話になった方であっても、自慰を見るために金払ってないよ。
そこに「わたしにとって」切実な話があったか・なかったかは嗜好性の問題だ思うけど、じゃあそれを「こういうことなんです」っていう、一定の見せ方をしてこそプロなんじゃないの?って感じ。そこの部分でコンセンサスが取れなかったことを、スタッフの力量不足のせいだけにしないでほしい。
確かに、スタッフワーク的に気合いが途切れた部分はけっこうあって、1曲どう考えても音割れぎりぎりで気持ちの悪い曲もあったし、効果音もひっどいのがあったし、光の言いたいことと音の言いたいことに非常に隔たりがあって「おいこら」と思ったりしたけどさ。
主観的な切実さが起点になっている表現は、それを客観的かつ冷徹に眺めた上で、切実さを再構築しないといけないものだと私は思っているので、陶酔のまま終わらせないでほしいよ。大学生の芝居なら何も気にしないんだけど、彼らは立派にプロだもの。
くだんの先輩は「彼(主宰)がたべていけるひとになれるかどうかは重要じゃない」と書いていたけど、やっぱり食べていけてなんぼだもの。そういう風になってほしいもの。そうじゃなきゃ魂のエリートという名のニートだよ。
これが3500円の舞台なら、こんなにモヤモヤしなかったことは確実なんだけど。でもさすがに、様々な意見を内包しつつ「3500 円の舞台だと思った」って感想を言うほど子どもでも悪人でもプロでもないので、本人に気付かれるところでは言わないのだった。
あとパンフに社会問題について書くタイプの演出家ってどうよ。そういう主題じゃなかったのに。
坂手洋二くらい、社会問題をみっちり落とし込んだ作品を書く人ならいざ知らず、現代社会の孤独とか病理とかを知った風に書かれると、どうもね。中二かよ!っていう。
舞台がらみでこういう風に腹立たしくなったのは久しぶりだったよ。
そちら側へと続く道はすでに切り捨てているわたしに言わせれば、芝居すんなら「子ども時代の続き」という安全地帯にいつまでもいないでほしいのだ。


そんなに偉そうなこと本人を前にしたら絶対に言えないし、言わないんだけど。だいたい素人のわたしなんぞに言われたくないだろうし。
しかし、こういうことを吐き出さなければメールで大喧嘩をおっぱじめかねないので、吐き出すだけ吐き出してみたという。