つぶやきではなく吐き出し的な何か

ここ何年かで好きな映画は?と聞かれたら、洋画なら「リトル・ミス・サンシャイン」邦画なら「嫌われ松子の一生」なんだけど、あくまでも世界がひとつ完結した中で心に刺さるテーマがあった好きな作品とは違うタイプの残り方を「(500)日のサマー」はしていて、それはそれで自分にとって大切な映画だということなんじゃないかと思う。まあ、映画を観てからひたすら自分のサマー的体験がフラッシュバックしている…ともいう。それから映画に立ち戻って「あのシーンはああいうことなのね」と納得してみる。

・サマーは「超モテる(ルックス的な意味で)」というのが冒頭で語られるんだけど、そのモテが尋常じゃなくて、しかしバイトした店のアイスクリームの売上が2倍になったりは現実的じゃないよなあ…と思っていたんだが、違うんだよね。物事すべてに「わたしはこう思う」という判断をする習慣のある女の子にとって、あのモテ方は明らかにホラーだよね。だってそこに「自分」がないんだもの。あそこにアイスクリーム買いに押しかけた男の子はサマーの個性なんて知ったこっちゃないんだ。そう思ったらサマーが「恋愛はしない」「誰かの所有物になるなんてまっぴら」と言い切った理由もわかる気がする。男嫌いになるほど臆病でもなけりゃ普通にセックスに興味があるし、お洒落だって大好きだけど、男の子の「夢の押しつけ」が怖いんじゃないか。
・「卒業」の使い方で気になったところ。少年トムが観ている「卒業」は結婚式場にベンが乱入するシーン。サマーとトムが一緒に観るシーンで流れるのは逃げ出した後。思ったんだけど、トムは結婚式場から逃げ出してバスに乗る瞬間までしか観る気がないんじゃないのか。彼はあの映画が好きだというわりに、ベンとエレーンが凄い顔するラストのことは毎回忘れてしまうタイプなんじゃないのか。あんなに楽しくきゃあきゃあ笑いながらいろんなことを放り出してバスに乗ったのに、もうその季節は終わりを告げようとしている。その怖さにトムは無頓着なタイプなんだとしたら、絶望的な気分になるってものだ。

しかし、男性の脚本・監督であるわりに、サマーがきちっとしたうえでぼかすという上級テクな描かれ方で、これきっと影にアドバイザーになった女性がいるんだろうな…と感じる。

文化系女子が、自分の趣味の話で思い切り盛り上がれる文化系男子にめぐり合う確率は低いです。だからトムはサマーに出会って超盛り上がってたけど、サマーだってトムみたいな男の子は得難いと思って喜んだと思うよ。

すごく趣味が合って話が全然尽きなくて体の相性もよかった昔の恋人と、わたしたちがなぜ別れたのかという話になったときに、「だってあなたは僕に心を開かなかったじゃない」と言われたことがあるんだけど、その絶望感たるや。もう反論するのも馬鹿馬鹿しくなった私は(だいたい惚れてもいない相手にそこまで熱くなれないし)「あなただってそうでしょう」と言ったら「男にはプライドってものがあるから」としたり顔で言われて、心の底からがっかりすると同時に、わたしこの人と寝てもいいけど二度と恋愛はしたくないなあとはっきり思ったのだった。
「理解ってどうしても必要?」と尋ねたら「だって寂しいじゃん」と返されて、それもまた嫌な言葉だった。私は理解できないことが寂しいなんて思わない。理解できない部分から素敵なものが生まれたりするのに、どうしてわからないんだろう…と、宇宙人を見るような眼で彼を見ていた。彼は彼の考えが普遍的であることを疑う風もなかった。
「彼ならわかってくれる」と思っていた人が本質的な部分で何もわかってくれていなかった辛さ。いや、前提が違う。最初から「わからないものだ」と思ってスタートすれば、ふたりにとってジャストな言葉を見つけられたかもしれない。自惚れて舞い上がっていたのは、こっちだったのかもしれないな。言葉がずれてどうしようもないときに、ズタズタに傷つけて反応を見ることでしか気持ちを推し量れなかった経験を思えば「私がシドよ」というサマーの絶望と、それでもかけがえのない人であるトムにぎりぎりと爪を立ててしがみつくような場違いのパンケーキと「私たち友達でしょ!?」という叫びに共感せざるを得ない。
そしてサマーの気持ちがわからない世の男性諸氏に言いたい。サマーはあの別れの後たったひとりでパンケーキを食べて誰もいない部屋に帰るしかないんだよと。ごめんなさい、あなたを傷つけたかったわけじゃないの。でも自分でもどうしたらいいのかわからなかったのよ、と。

恋愛って異文化コミュニケーションなのかもしれんと思っているこの頃に「(500)日のサマー」を観てよかったな。好きな男と観ない方がいい映画ではあるけれど。「わからず屋!」と思ったら、空にたらいを描きながらきちんと説明したいと思います。
…でもねえ自分の趣味を笑われたら殴るよ。たらいじゃ済まない。