ザ・ダイバー@東京芸術劇場

チケットどうにか手に入れて、行ってきました東京芸術劇場。平日なのに当日券の列のすごさ・そして立ち見禁止という不条理。当日券、この様子じゃ3時間くらい前から並ばないと厳しかったのかも。本当にチケット譲って頂いてよかった…


犯罪を起こして精神鑑定を受ける女を大竹しのぶ精神科医野田秀樹、本庁の刑事が北村有起哉、女を逮捕した警部が渡辺いっけい。彼女の犯罪に源氏物語の「葵」、つまり能の「葵上」が絡むという筋立て。
偶然にもこの夏読んで一番ガツンときた本が角田光代「八日目の蝉」だったので、そこに奇妙な符丁を感じました。「ザ・ダイバー」も「八日目の蝉」も「家庭のあるいい加減な男にいれあげて妊娠し、その子を堕ろしたことを彼の妻に責められる」ことが犯罪の引き鉄になっていたので。ただ、最終的に救いを感じさせた「八日目の蝉」に対し、「ザ・ダイバー」の罪は重く深く救いがない。
女の放火で殺されたのが、男と妻ではなくふたりの子どもだった…という時点で充分救いがないんだけど、加えて女は「わたしは子どもを4人殺した」という。ふたりは男と妻の、放火で死んだ子。もうふたりは女が堕ろした男の子ども。彼女に精神科医が「もうふたりの子どもはどこにいるんです?」と問いかけた瞬間、ぶわっと泣きそうになった。ものすごい勢いで刺さった。だらしなくて自分のことしか考えていない男が父親だったことにも、夫の愛人に嫌がらせの電話をかけ続ける女が母親だったことにも、教養があるくせにどうしようもない男と6年も不倫をした女が母親だったことにも、全部子どものせいじゃないのに殺された子どもがいる。火事で死んだ子は被害者の遺族が悼んでくれるけれど、堕ろした子は誰も悼んでくれない。子どもに罪がなかったのは一緒なのに。
そう思うと、もう誰が悪いとか何が愚かとか、そういったことが全部消え去って、罪のない者が死の中に取り残された暴力的で悲しい理不尽だけが手の中に残る。


本当に重たい舞台でした。でも、重たいものに向き合って何が心の中に残るか、そういう思考もまた止めてはいけないと思った。そういうことができない人が、人の心の悲しみや苦しみを排除した場所から居丈高に「○○は悪い、とにかく悪い」と叫ぶようになるんだから。共感って何も「泣ける」とか「わかる」ところにしか存在しないわけじゃない。
「人は何にでもなれる」というのが自由主義の子どもたちに与えられた権利であるならば、それこそ、不倫の挙句に男の子どもを焼き殺す女にだってなれるんですよ。だからこそ、自分に向き合って良い生き方を選択していかねばならないと常日頃から思っています。


っていうかこれ実話ベースなんだね…
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/hino-ol.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8EOL%E4%B8%8D%E5%80%AB%E6%94%BE%E7%81%AB%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
まさか「生きた子どもを平気でお腹から掻きだすような人なのよ、あなたは」が本当に事件のファイルの中にあるとは思わなかった…あの台詞きつかったなあ。