誰が殺した黒い鳥

世田谷パブリックシアターにて「BLACKBIRD」千秋楽を観劇。
http://www.horipro.co.jp/ticket/kouen.cgi?Detail=126
自転車で行ったら20分ちょいで着いたよ。電車で乗り継ぐより早いよ。これからパブリックシアターとシアタートラムで観劇のときはチャリを使うことにしようと思いました。
≪STORY≫------------------------------------------------
15年前に未成年者に対する行き過ぎた行為で有罪判決を受け、名前も住む場所も変えて人生をやり直した男レイの元へ、ある日突然、一人の女が現れる。それは、その事件の被害者で、ずっと同じ町に暮らし、周囲から好奇の目でみられながら生きてきたウーナだった。
来訪の目的がわからず怯えるレイに、ウーナはこの15年間について、そして当時の‘こと’について話し始める。やがて明らかになるふたりの本当の関係と、意外な真実とは・・・

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一言感想「あれ…私はホラーを観に行ったの…かな…?」
15年ぶりに出会ったふたりが「事件」の答え合わせをしていくという構成。レイのウーナに対する感情は恐れと逃げばかりで、ウーナのレイに対する感情は怒り、そして「逃げてほしくない」というもの。その絶対的なすれ違い、そして気持ちが通じたかと思える一瞬の後でもろく崩れ去る関係は残酷にすら思えた。
伊藤歩さんはほぼ舞台初出演ということで、やっぱり身体の使い方とかに難点はあったものの、凄みのある芝居だった。全身から危険なオーラが漂い、今にも爆発しそうな小型爆弾。この子は怖い、この子に近づいてはいけないというシグナルを感じる一方で、きっと15年前の彼女――レイが彼女を愛した時点でのウーナ――もきっと魅力的だったのだろうと思わせるような。声は枯れかけていたけれど、こんなエネルギーを全身から発していられるなんてすごい女優だと改めて思った。手足は長いけれど全体に色気のない体つきで、頼りないほど細い足で暴れまわる姿は危険で美しいけものみたいだ。
内野聖陽氏はイケメンオーラ消えていた。そのことに驚いた。私の思う彼はいつも色気のあるセクシーなタイプなのに、卑劣で小さくて取るに足らない、そういう枯れ果てたレイそのものだったと思う。反転、ウーナに抱きつくところの可哀想な色気はやっぱり素敵で、15年前の彼はきっと少女ウーナにとって魅力的なおとなの男だったんだろうなと。
キャスト二人を観ていてごく自然に「15年前」の彼らに思いを巡らせられて、そのこと自体に驚いた。「昔」がファクターになっている芝居は多くあるけれど、回想シーンが一瞬たりとも演じられず語られるだけなのに、ありありと「どういう人だったのか」が思い浮かぶ。15年の少女と、社会的地位のないおろかな男。彼らはどんなふうに事件に置き去りにされたのか。置き去りにしてきたふたりは、彼らの中で一体何を物語るのか。向き合いたいのか、逃げたいのか、やり直したいのか、消したいのか、思い出にしたいのか、愛したいのか。それをぐるぐるしながら結局答えは出ない。その構成の痛ましさときたら!
以下、ラストの重要部に触れるのでたたみます。


レイがウーナを抱くことを拒絶した直後に出てきた、レイの同棲相手の連れ子だという12歳くらいのウーナに良く似た少女。あの救いのなさは心底ホラーだった。
少女がレイの言うように「ただの同棲相手の連れ子」なのか、あるいはレイはかつてウーナにしたのと同じことを少女にしているのか。もし前者なら、かつて犯された12歳のウーナは救われない。だって現在、レイは彼女そっくりの少女を普通に娘として愛している。それなら犯され傷つけられ、あの街で後ろ指をさされながら生きてきたウーナは一体何なのか。後者であっても彼女は救われない。だって、そうであるならば彼は「ウーナを愛した」わけではなく「12歳の少女ならだれでも良かった」ということになるんだから。
どっちに転ぼうが、今のレイはウーナを抱くことはなく、レイに恋をして彼とセックスして棄てられた12歳のウーナは救われない。だって「彼女を愛したレイ」はどこにもいないんだから。15年前の事件も名前もウーナへの愛も棄てて逃げたレイ。今はピーター・トレベリアンと名乗る男にとってウーナはどこにもいない女。けれど現に彼女は、傷と12歳の少女の魂を抱えたまま爆弾のように生きている。幽霊みたいに。
そんなことを考えながら観ていたものだから、最後の「レイ」と呼びながら部屋を後にするウーナの姿は非常に怖くて怖くて仕方なかった。