ふたりの「光の帝国」

恩田陸の小説「光の帝国」を、この春「大きな引き出し」メインでキャラメルボックスが舞台化しているのですが、それを映像で観たのです。原作通りではなかったけれど、非常に幸せな形での舞台化だったと思うので、それをちょっくら検証してみました。
キャラメルボックスの脚本・演出家である成井豊氏は私にとって後藤ひろひと三谷幸喜がそうであるように、演劇への扉を開いたところにちょうどいた人で、最近のオリジナルは以下略とか、もうアコースティックは以下略とか言いつつも非常に大事な劇作家です。恩田陸さんもその展開は以下略とか、あの流れでああいくのはひどいとか言いつつも気にしている作家のひとりではあるので、そのふたつが幸せな邂逅をしたというのは非常にうれしいことだ。この「光の帝国」の素晴らしさは、内容如何というよりも成井さんが何度も何度も「光の帝国」をひっくり返して読んで作品にしたんだろうなという痕跡が随所に伺えることだったりもする。以下検証。

≪教室でのシーン≫
掃除の時間。クラスメイトの女の子が百人一首をすべて覚えたことを自慢している。「それがそんなに偉いのか」と言う光紀。「じゃあ春田君は何を覚えているの?」と聞かれ、答えられなくて喧嘩になり、光紀は手を傷める。先生が来て「将来の夢」についての作文を書くように宿題を出す。

原作に比べると光紀はかなり根暗で人付き合いが苦手な子どもに書かれている。恩田陸の書く小学生男子のように可愛くない。生い立ちが人より少し複雑で内気な少年っていうのは「さよならノーチラス号」や「ハックルベリーにさよならを」の主人公っぽいけど、脚本家の成井さん自体がそういう少年だったらしいから、書きやすいのかもしんない。あと、芝居は起承転結が命なので「起」と「結」に明確な違いをあらわすための改変じゃないかと。

≪帰路≫
平家物語の「敦盛」をしまいながら歩く光紀。しまった後の紙を道路に棄てて猪狩老人に怒られる。医者である猪狩老人に手の怪我を見抜かれ手当てを受け、彼が平家物語のファンであることを聞かされる。光紀が「覚えるだけのことに何か意味があるのかな」と尋ねてみると、先生は「今は覚えるだけでも、そのうち素晴らしさがわかるんじゃないか」と諭す。湿布を張り替えてやるからまた明日来いと言われ、代金なしで帰される光紀。

原作では「さるすべりの家のおじいさん」で挨拶をするだけの仲なのが、舞台では平家を通じて深めの知り合いに昇格。職業も展開の都合上医者に。また、常野ではない普通の人間の猪狩先生が「響く」ことの意味を暗示しているのも興味深い。確かに、子どものころ読んだ教科書文学の素晴らしさに後から気づくことってあるよね。山月記とかこころとか。

≪春田家≫
父に催促されてシェイクスピア「ヘンリー四世」の暗誦に付き合う記実子と母。彼らは「響いて」いるので、この台詞がどう素晴らしいとか、この登場人物がどうだとかでひとしきり盛り上がる。まだ「響いて」おらず、シェイクスピアもまだ「しまって」いない光紀にはそれが面白くない。記実子の言葉で光紀が猪狩先生に平家の暗誦を聞かれたことが知られてしまい、母はもう猪狩先生のところへ行かないように告げる。光紀、拗ねる。あと先生の家庭訪問があったけど、これはほぼギャグシーン。

ただ言葉を羅列するだけだった光紀の平家の暗誦に対比させて、活き活きと語らいながらヘンリー四世を暗誦する家族を描写することで、「響く」ことの意味と家族の仲のよさ、光紀の漠然とした疎外感がいっぺんに示されて良い演出。そのうえ猪狩先生のことまで叱られたんじゃ、光紀も拗ねるよなと。

≪再び猪狩医院≫
猪狩先生の前で平家物語を暗誦する光紀は、自分の力で先生が喜ぶことと、褒めてくれることが嬉しくてたまらない。先生は自分の娘と息子を光紀に紹介するが、そこへ長男の悠介が帰ってくる。「あんたがもうすぐ死ぬと聞いて遺産を貰いに来た」と毒づく悠介。勇気を振り絞って先生の味方をする光紀。悠介に「他人が口を挟むな」とどやされるが、先生は「この子は私の友達だ。他人はお前のほうだ」と怒鳴りつけ追い出す。「病気って本当?」と不安げな光紀を先生は安心させ礼を言うが、彼の帰宅後に倒れてしまう。

原作では葬式後に帰ってくる悠介が、ここで一旦帰郷している。また原作では「優しい目をした初老の男」なのが、革ジャンにグラサンに細身のパンツという非常に気障な風体の30男になっている…まあ、大内さんだしな。猪狩先生を演じた阿部さんも若いし。
自分の力を喜んでもらえたこと、友達と認めてもらったこと、勇気を出して先生を守れたこと、その全部が嬉しくて仕方ない光紀が、犬のように可愛い。

≪再び春田家≫
ツル先生(名前のみ出演)からの手紙により金沢への引越しを決める両親。光紀が猪狩先生に会っていたことを知った母親は、戦時中「力」を狙われた常野の人々のことを話す(原作「光の帝国」対応)。
そんなのは昔の話だ、今は違う、先生は僕を友達だと言ってくれた、そのうえまた引越すだなんて、誰も僕の言うことなんて聞いてくれないじゃないかと怒り出し、猪狩先生の家へ向かう光紀。

両親の事情と光紀の気持ちが、どっちも間違っていないのにぶつかって爆発するシーンで「光の帝国」の表題作エピソードをもってくるのはひたすらうまい。そして母親役の坂口さんの語りもうまい。お祈りが台詞として出てきたのも嬉しくて、あーやっぱりこれ宮沢賢治スキーの成井さんの趣味だよなあと思った。

≪猪狩先生の家・そして病院≫
先生が入院したことを知り、光紀と記実子は娘と次男に病院に連れて行ってもらう。早く元気になって、それまで僕が先生の家に住む、引越しなんてしない、僕を先生の家に置いてよと頼む光紀を、先生は「ちゃんと両親と向き合わなくちゃいけない」と叱りつけ、そのまま倒れてしまう。
光紀が思わず先生に触れると、先生の人生が光紀に流れ込んでくる。
戦争でひとりぼっちになった彼を迎えに来た叔母、医者になりたいという我侭を快く受け入れてくれた叔父、初めての子どもを抱いて微笑む妻、芸術学部を志望する長男の方を持った担任の教師、妻の死で憔悴する彼をなぐさめる娘、学校をやめた兄のかわりに僕が医者になるよと笑う次男、長男・悠介との口論と決別、そしてフィルムがからからと回る音。「ここはどこ?…映画館!」

音楽とともにキャストが先生の人生のキーポイントになる台詞を言っていくことで、「しまう」と「響く」を表現…ってこれこそ演劇にしかできない表現なんじゃないだろうか。ここの先生の表情がすごく良くてねえ…。特に子どもを抱く妻に向ける愛しげな笑顔が泣けた。先生と光紀の会話は、悠介と向き合えずに死のうとしている先生自身への戒めでもあるんだよなあ。

≪5日後、春田家≫
引越しの準備をしている両親と記実子。先生を「しまって」以来眠りどおしだった光紀が起きてくる。両親が先生の死を伝えると、光紀は「やらなきゃいけないことがある」と先生の家へ駆け出す。記実子が追う。

光紀が先生の家へ行く過程で、彼は母親に先生の記憶を見せているのですが、そのことについて語る両親の会話の中で「大きな引き出し」という言葉が初登場だったり。

≪猪狩先生の家≫
父の死を知った悠介が帰ってくるが、仲直りの機会をふいにしたうえ通夜にも葬式にも顔を出さなかった彼に弟妹は冷たく接する。しおれきって帰ろうとする悠介を光紀と記実子が引きとめ「宝物」のことを話す。あのときは追い返したけれど僕が間違っていた、先生は本当は仲直りがしたかったのに、僕のせいで台無しになってしまったのだと。
光紀の言ったとおりの場所を探すと古びたトランクの中から、悠介の映画とスクラップブックが出てきた。それは猪狩先生が悠介の映画をひとりで見て追いかけ続けていた軌跡。映画賞を受賞した記事に書かれた「オメデトウ」の文字を見て悠介は泣き崩れる。

原作でもキーになるシーンなので、展開などはほとんど一緒。ただ尺の問題かちょっと急かしすぎのような。「ほら、こっちにも」とか「次のページで最後なんだ」とかの台詞抜きで、スクラップブックをめくるごとに気持ちを抑えきれなくなる悠介を見ていたかった。

≪引越しの日≫
先生のもとへ光紀が「将来の夢」の作文を出しに来る。光紀の夢は、たくさんの人と会える仕事に就くこと。「ときどき思い出して」と言う先生に、光紀は「僕は忘れないんです」と笑いかける。

大事な人と出会っても別れなきゃいけない辛さを受け入れて、それでも人と出会う仕事がしたいという光紀の姿。まあこれは能力者というファクターを使ってはいるものの、少年の普遍的な成長物語なんだよね。ここが原作版と舞台版の決定的な違いであり、しかしこれを舞台にするうえで欠かせなかった部分というか。


「光の帝国」の冒頭とエンディングは、それから15年後に悠介のもとを訪れる光紀と記実子の話。常野を題材にした映画を作るという悠介を、カメラマンと翻訳家になったふたりが止めにきて回想→現在へ。どうしてもやるのだと言って聞かない悠介に、光紀は力を使って両親の最期(力を狙われて殺された)のヴィジョンを見せる。
即答できず「考えさせてくれ」という彼に光紀たちは笑って「わかりました」と言いその場を後にする。ひとりになった悠介は光の中で映画の台本を引き千切り幕―――といった感じ。

ここ、原作にもなかった「春田家の両親が殺されている」設定を持ってきた意味がよくわからなくて。超能力者モノってキャラメルボックスでも定石で、そのほとんどは平和にひっそりと暮らしているのに、なぜ?と思って。
可能性として考えられるのは
1.「光の帝国」別エピソードで描かれる常野の人々の迫害の歴史を織り込むため
2.このシリーズが今後、常野の人々の戦いの歴史になると原作者から聞いた
3.「危ないのよ」「考えすぎだよ」という春田家のやりとりの決着を示すため
とかそういう感じ?
あ、でも親に死なれてなお「人と知り合う仕事がしたい」という夢をかなえた光紀の笑顔は素敵でした。

≪「しまう」能力の差異≫
原作→書物や譜面から人間に至るまでしまうことができる。「蒲公英草紙」によると物の残留思念もしまえ、一度「しまった」人間には触れなくても追加してしまうことができる。
舞台→書物や譜面は原作どおりにしまえるが、人間をしまうのは臨終間際の人に限定されるらしい。

小説は作者がわかっていればいいけれど、舞台の場合は少なくとも脚本演出陣&能力者役の4人の間でコンセンサスが取れている必要があるから、能力の解釈は舞台版のほうがかっちりしているという印象。こういう特殊能力ものって後付けしようと思えばある意味やり放題だからなあ…

ええと、ヒューマニックな部分はあるけれど読書感想文には向かないタイプの作品を、特殊能力を持った孤独な少年が、老人と友達になったことを通じて自己を肯定し受け入れていく成長モノに理解・分解・再構築した舞台でした。そのせいか少々「夏の庭」チックな話になった気がした。「なつやすみ観劇感想文コンクール」があればふるってご応募できちゃう感じ。あー…そういえば「ナツヤスミ語辞典」ってある種キャラメル版&女子中学生版「夏の庭」なのかも。

そして、ここまでみっちり春田家の能力を再構築したのなら、いつか「蒲公英草紙」をやればいいと思います。時間軸をひと夏に限定すれば2時間でまとまりそうだ。光比古と紀代子は光紀と記実子をスライドして、峰子=實川さん、聡子=温井さんでいいんじゃないか。

あと思ったこと。岡内さんの記実子は今にも「あんたバカァ?」と言い出しそうな感じがとても良かったです。そうか彼女はアスカなのか。そりゃおとなしい美少女や凛とした貴婦人がルックスのわりに似合わないわけだ。男の子を問答無用でひっぱたく、おきゃんで強気な女の子やってるときの岡内さんは結構好きなんだけどな…うん。

最後に「光の帝国」ダンスシーンに使われていた曲なんぞを紹介。

うん。いい曲。泣けるなあ。
「どうにもならないことがあるのは知ってるんだ それでもまた夜空を見上げて祈ってる」という歌詞は、常野物語シリーズに通して言えるテーマのような気がする。